路線建設開始から全線開通まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/31 13:06 UTC 版)
「知多鉄道」の記事における「路線建設開始から全線開通まで」の解説
1929年(昭和4年)12月より、第一次工区として太田川 - 成岩間の建設が開始された。同時期に発生した世界恐慌の影響により日本国内においても不況が深まり、中途資金調達が困難となった時期もあったものの、愛電による技術・資金両面の援助により工事は順調に進み、1931年(昭和6年)4月に太田川 - 成岩間15.8 kmが暫定開業した。 知多鉄道線は高速運転を目的として、高速運転時の高負荷に耐えうる重軌条や、保安度の高い自動閉塞方式および3位式信号機を採用するなど、高規格の路線として建設された。また、太田川 - 知多半田間14.8 kmについては複線規格とし、保安度向上のほか高頻度の列車運行を可能とした。また、開業に際しては半鋼製車体を採用する2軸ボギー構造の電車を8両導入した。この電車は形式称号を「デハ910形」としたが、これは製造年の1931年(昭和6年)が皇紀2591年に相当することに因み、下2桁の「91」を採って形式称号としたものであった。 直流1,500 V電化・軌間1,067 mm(狭軌)の路線として開業した知多鉄道線は、当初より愛電常滑線と相互直通運転を行い、知多半田から愛電の名古屋市内における拠点駅である神宮前までを最速35分で結び、従来知多半島東岸における唯一の公共交通機関であった武豊線が半田 - 熱田間に1時間半を要していたのと比較して大幅な所要時分短縮を実現した。さらに知多半田 - 神宮前間の運賃を、武豊線の半田 - 熱田間と同額に設定したこともあり、知多鉄道線は武豊線に代わって半田地区における主たる公共交通手段として定着した。また前述の通り、知多鉄道線の運営は愛電に委託され、実質的に愛電の一路線として愛電との連絡運輸を緊密に行った。 翌1932年(昭和7年)7月には成岩 - 河和口間10.0 kmが延伸開業した。同時期には鉄道省によって武豊線武豊駅から南知多方面への乗合バスの運行が計画された。そのため、知多鉄道は対抗策として列車増発のほか、1933年(昭和8年)7月に農学校前・南成岩・浦島の3駅を開業し半田地区における利便性を向上させた。さらに知多半島一円において乗合バス事業を展開した知多自動車(現・知多乗合)の発行株式の過半を取得して子会社化するなど対抗手段を講じた結果、鉄道省による乗合バス運行計画は撤回されるに至った。 河和口以南は用地買収の遅れから建設が停滞し、約3年後の1935年(昭和10年)8月に河和口 - 河和間3.0 kmが延伸開業し、全線が開通した。河和より先、知多半島を横断して半島西岸の知多郡内海町に至る路線延伸計画も検討されたが、こちらは具現化することなく終わった。
※この「路線建設開始から全線開通まで」の解説は、「知多鉄道」の解説の一部です。
「路線建設開始から全線開通まで」を含む「知多鉄道」の記事については、「知多鉄道」の概要を参照ください。
- 路線建設開始から全線開通までのページへのリンク