「南北戦争」からルートの決着までとは? わかりやすく解説

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「南北戦争」からルートの決着まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:52 UTC 版)

北越急行ほくほく線」の記事における「「南北戦争」からルートの決着まで」の解説

第二次世界大戦後は、高田と結ぶ軍事路線という動き消滅し佐渡航路ならびに北陸本線との連絡という観点から直江津起点とすることで決着して、直江津上越線を結ぶ鉄道とすることになった1950年昭和25年9月3日に、北陸上越連絡鉄道上越西線期成同盟会の発会式が高田市1971年合併により上越市一部)で行われ戦後鉄道建設運動開始された。しかしルート一本化はできず、起点直江津とされたものの終点六日町越後湯沢双方の案が会則併記される形となった以降、「北越北線ほくえつほくせん)」案と「北越南線ほくえつなんせん)」案の間で14年に渡る鉄道誘致合戦南北戦争」が勃発することになった北線案の利点は、新潟県内主要都市を結び産業開発経済面優れ採算性優れること、地すべり地帯がなく防災上有利であることであり、これに対して南線案の利点首都圏から直江津までの距離を短縮することができること勾配北線25パーミルに対して20パーミル抑えられ輸送力大きくできること苗場高倉森林および地下資源三国清津温泉開発できることであるとされた。 この当時国鉄新線1922年大正11年)に制定され鉄道敷設法基づいて建設されており、新線建設するには法律改正し鉄道敷設法別表路線経路記載する必要があった。そして別表への記載は、諮問機関である鉄道建設審議会検討経て決定されることになっていた。日本国政レベルでは、南北両案の一本化ができさえすればいつでも審議会了承されるというところまで議論進んでいた。しかし一本化できないままに1953年昭和28年2月第9回鉄道建設審議会開催され、両案の対立激しくて審議会でも決断下しかね、「経過に関する地元意見不一致並びに現地調査の不十分」を理由審議未了保留となったこうした事情もあり、両線の一本化を図るために期成同盟会では、前年新潟県知事岡田正平経過地の裁定一任することを決議していた。岡田は、新潟県市長会および商工会議所連合会諮問して、北線案が妥当との答申を受け、8月北線採択裁定下した。しかしこの裁定説明するために9月開催され期成同盟総会南線側がボイコットするという事態となって、さらに時間空費されることになったその後も両派の争い続いたが、1962年昭和37年)に事態動いたこの頃南線案の予定通過地である松之山町中心部地すべり災害発生しており鉄道通過ルートとしてふさわしくないとされたことと、道路交通発達それほど鉄道にこだわる必要がなくなったことなどから、一方路線採択された際にはもう一方路線側から鉄道連絡する道路整備するということ条件に、国鉄裁定一任することになった1962年昭和37年4月22日鉄道建設審議会上越西線予定線採択することを決定し5月12日鉄道敷設法1条別表55ノ3に「新潟県直江津より松代附近経て六日町に至る鉄道松代附近より分岐して湯沢に至る鉄道」が追加されて、南北両案が鉄道予定線となった1962年昭和37年7月から、国鉄では人口分布産業構成などの経済調査新潟県依頼して実施した地元でも、従来の上越西期成同盟会を発展的に解消して新たに北越連合期成同盟会を1963年昭和38年6月27日発足させ、工事線への昇格向けて積極的な運動行った1964年昭和39年4月22日運輸大臣北越北線調査線指示し続いて9月28日には工事線に格上げした上で南線北線によって効用満たし得るとの判断から、調査線から南線削除した。こうして北越北線正式に採択され南北戦争終結することになった。なおちょうこの頃1964年昭和39年3月日本鉄道建設公団鉄道公団、以下公団と略す)が設立され国鉄新線建設事業公団引き継ぐことになって北越北線公団引き継がれた。 北越北線調査線となって以降詳細なルート検討進められた。地元北越北線旅客輸送期待したが、国鉄から見れば首都圏北陸地方短絡する有力な貨物線であり、上越線信越本線との間の方向転換機関車交換作業廃止し輸送時間を短縮することを狙っていた。そのため重量1,000トン貨物列車の運転を想定した貨物輸送路線選定の要となり、当初六日町駅黒井駅可能な限り直線的に結ぶルート考えられていた。これにより十日町では飯山線直交するルート案となり、飯山線十日町駅とは別に北越北線十日町駅を約1,300メートル離れた位置設け地下駅とする案もあった。しかしこれには地元からの強烈な反発があり、実際経路飯山線十日町駅乗り入れるクランク状のものとなった。また東頸城地方では、安塚大島室野松代町西部)を経由する南側膨らんだ路線要望され決着時間要したが、最終的にほぼ原案通りとなった。ところが、国鉄側と最終的に詰め段階になり、直江津駅構内貨物ヤード操車場)が処理能力限界迎えていたことから、黒井駅犀潟駅寄り新たな操車場建設する構想持ち上がった。これにより北越北線乗り入れ操車場支障しない犀潟駅ならざる得ず、旧頸城鉄道沿線から経路外れて頸城村中心地2005年合併以降の上越市頸城区百間町付近)も通らないことになった浦川原 - 犀潟間は、後の工事凍結時点未着工であり、黒井操車場計画結局実現しなかったこともあって、工事再開時に新たな路線問題なりかけたが、最終的に六日町犀潟を結ぶ経路確定した

※この「「南北戦争」からルートの決着まで」の解説は、「北越急行ほくほく線」の解説の一部です。
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