「南北戦争」からルートの決着まで
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「北越急行ほくほく線」の記事における「「南北戦争」からルートの決着まで」の解説
第二次世界大戦後は、高田と結ぶ軍事路線という動きは消滅し、佐渡航路ならびに北陸本線との連絡という観点から直江津起点とすることで決着して、直江津と上越線を結ぶ鉄道とすることになった。1950年(昭和25年)9月3日に、北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会の発会式が高田市(1971年の合併により上越市の一部)で行われ、戦後の鉄道建設運動が開始された。しかしルートの一本化はできず、起点は直江津とされたものの終点は六日町と越後湯沢の双方の案が会則に併記される形となった。以降、「北越北線(ほくえつほくせん)」案と「北越南線(ほくえつなんせん)」案の間で14年に渡る鉄道誘致合戦「南北戦争」が勃発することになった。 北線案の利点は、新潟県内の主要都市を結び産業開発や経済面で優れ、採算性に優れること、地すべり地帯がなく防災上有利であることであり、これに対して南線案の利点は首都圏から直江津までの距離を短縮することができること、勾配を北線の25パーミルに対して20パーミルに抑えられ輸送力を大きくできること、苗場や高倉の森林および地下資源、三国、清津の温泉の開発ができることであるとされた。 この当時、国鉄の新線は1922年(大正11年)に制定された鉄道敷設法に基づいて建設されており、新線を建設するには法律を改正して鉄道敷設法別表に路線経路を記載する必要があった。そして別表への記載は、諮問機関である鉄道建設審議会の検討を経て決定されることになっていた。日本の国政レベルでは、南北両案の一本化ができさえすればいつでも審議会で了承されるというところまで議論が進んでいた。しかし一本化ができないままに1953年(昭和28年)2月の第9回鉄道建設審議会が開催され、両案の対立が激しくて審議会でも決断を下しかね、「経過地に関する地元の意見の不一致並びに現地調査の不十分」を理由に審議未了・保留となった。こうした事情もあり、両線の一本化を図るために期成同盟会では、前年に新潟県知事の岡田正平に経過地の裁定を一任することを決議していた。岡田は、新潟県七市長会および商工会議所連合会に諮問して、北線案が妥当との答申を受け、8月に北線案採択の裁定を下した。しかしこの裁定を説明するために9月に開催された期成同盟会総会を南線側がボイコットするという事態となって、さらに時間が空費されることになった。 その後も両派の争いは続いたが、1962年(昭和37年)に事態は動いた。この頃、南線案の予定通過地である松之山町の中心部で地すべり災害が発生しており鉄道の通過ルートとしてふさわしくないとされたことと、道路交通の発達でそれほど鉄道にこだわる必要がなくなったことなどから、一方の路線が採択された際にはもう一方の路線側から鉄道へ連絡する道路を整備するということを条件に、国鉄に裁定を一任することになった。1962年(昭和37年)4月22日に鉄道建設審議会が上越西線を予定線に採択することを決定し、5月12日に鉄道敷設法1条別表第55ノ3に「新潟県直江津より松代附近を経て六日町に至る鉄道及松代附近より分岐して湯沢に至る鉄道」が追加されて、南北両案が鉄道予定線となった。 1962年(昭和37年)7月から、国鉄では人口分布や産業構成などの経済調査を新潟県に依頼して実施した。地元でも、従来の上越西線期成同盟会を発展的に解消して新たに北越線連合期成同盟会を1963年(昭和38年)6月27日に発足させ、工事線への昇格に向けて積極的な運動を行った。1964年(昭和39年)4月22日に運輸大臣は北越北線を調査線に指示し、続いて9月28日には工事線に格上げした上で、南線は北線によって効用を満たし得るとの判断から、調査線から南線を削除した。こうして北越北線が正式に採択され、南北戦争は終結することになった。なおちょうどこの頃、1964年(昭和39年)3月に日本鉄道建設公団(鉄道公団、以下公団と略す)が設立され、国鉄の新線建設事業は公団が引き継ぐことになって、北越北線も公団に引き継がれた。 北越北線が調査線となって以降、詳細なルートの検討が進められた。地元は北越北線に旅客輸送を期待したが、国鉄から見れば首都圏と北陸地方を短絡する有力な貨物線であり、上越線と信越本線との間の方向転換・機関車交換作業を廃止し輸送時間を短縮することを狙っていた。そのため重量1,000トンの貨物列車の運転を想定した貨物輸送が路線選定の要となり、当初は六日町駅と黒井駅を可能な限り直線的に結ぶルートが考えられていた。これにより十日町では飯山線と直交するルート案となり、飯山線の十日町駅とは別に北越北線の十日町駅を約1,300メートル離れた位置に設け、地下駅とする案もあった。しかしこれには地元からの強烈な反発があり、実際の経路は飯山線十日町駅に乗り入れるクランク状のものとなった。また東頸城地方では、安塚、大島、室野(松代町西部)を経由する南側に膨らんだ路線を要望されて決着に時間を要したが、最終的にほぼ原案通りとなった。ところが、国鉄側と最終的に詰める段階になり、直江津駅構内の貨物ヤード(操車場)が処理能力の限界を迎えていたことから、黒井駅の犀潟駅寄りに新たな操車場を建設する構想が持ち上がった。これにより北越北線の乗り入れは操車場に支障しない犀潟駅とならざるを得ず、旧頸城鉄道沿線から経路が外れて頸城村の中心地(2005年の合併以降の上越市頸城区百間町付近)も通らないことになった。浦川原 - 犀潟間は、後の工事凍結時点で未着工であり、黒井の操車場計画が結局実現しなかったこともあって、工事再開時に新たな路線問題となりかけたが、最終的に六日町と犀潟を結ぶ経路で確定した。
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