「南北急行」の構想
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ワゴン・リ社は創業翌年の1872年からベルギーのオーステンデとドイツ帝国のベルリンの間で寝台車の営業を行なっていた。さらにベルリンからアイトクーネンでも寝台車を運行した。1878年には社長ジョルジュ・ナゲルマケールスがロシアを訪れ、ロシア帝国内での事業に関する交渉を開始した。 ワゴン・リ社は1884年に「南北急行(Nord-Sud Express)」の構想を発表した。これはロシアのサンクトペテルブルクとポルトガルのリスボンを結ぶもので、途中アイトクーネン、ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)、ベルリン、ハノーファー、ケルン、リエージュ、パリ、ボルドーを経由する予定であった。また一部の客車はカレーとマドリッドへ分岐するとされた。ロシアとスペイン、ポルトガルの鉄道は、ヨーロッパ中央部の標準軌とは異なる広軌を使用していたため、従来は列車の直通は不可能だったが、3軸台車を用いた一種の軌間可変車両を開発し直通運転を行う計画であった。サンクトペテルブルク - リスボン間4834kmの所要時間は83時間以下と予定されていた。またリスボンでは南アメリカへ向かう船と接続し、東ヨーロッパから南米へは従来のル・アーヴル経由の乗り継ぎと比べて30時間の短縮になるとされた。 しかしこの計画は実現することはなかった。軌間可変車両の実用化には、ロシアとスペインが国防上の理由から強く抵抗したと推測されている。1884年のコレラの流行も、各国の国際列車に対する態度を消極的にしていた。またドイツも、ベルリンを通り過ぎるだけの列車に難色を示した。このため、列車はパリを境に北急行と南急行の2つに分断され、まず南急行が1887年から運転を始めた。軌間可変車両の開発も断念され、国境での乗り換えが必要となった。
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