「南北急行」の構想とは? わかりやすく解説

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「南北急行」の構想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/09 17:21 UTC 版)

北急行」の記事における「「南北急行」の構想」の解説

ワゴン・リ社創業翌年1872年からベルギーオーステンデドイツ帝国ベルリンの間で寝台車営業行なっていた。さらにベルリンからアイトクーネンでも寝台車運行した1878年には社長ジョルジュ・ナゲルマケールスロシア訪れロシア帝国内での事業に関する交渉開始したワゴン・リ社1884年に「南北急行(Nord-Sud Express)」の構想発表した。これはロシアサンクトペテルブルクポルトガルリスボンを結ぶもので、途中アイトクーネン、ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)、ベルリンハノーファーケルンリエージュパリボルドー経由する予定であった。また一部客車カレーマドリッド分岐するとされた。ロシアスペインポルトガルの鉄道は、ヨーロッパ中央部標準軌とは異な広軌使用していたため、従来列車直通不可能だったが、3軸台車用いた一種軌間可変車両開発し直通運転を行う計画であったサンクトペテルブルク - リスボン間4834kmの所要時間83時間以下と予定されていた。またリスボンでは南アメリカへ向かう船と接続し東ヨーロッパから南米へ従来ル・アーヴル経由乗り継ぎ比べて30時間短縮になるとされた。 しかしこの計画実現することはなかった。軌間可変車両実用化には、ロシアスペイン国防上の理由から強く抵抗した推測されている。1884年コレラの流行も、各国国際列車対す態度消極的にしていた。またドイツも、ベルリン通り過ぎるだけの列車難色示したこのため列車パリを境に北急行南急行2つ分断され、まず南急行1887年から運転を始めた軌間可変車両開発断念され、国境での乗り換えが必要となった

※この「「南北急行」の構想」の解説は、「北急行」の解説の一部です。
「「南北急行」の構想」を含む「北急行」の記事については、「北急行」の概要を参照ください。

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