「南京街」とは? わかりやすく解説

「南京街」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 03:30 UTC 版)

横浜中華街」の記事における「「南京街」」の解説

1923年大正12年9月1日発生した関東大震災でこの地区大打撃受けて瓦礫化した欧米人多く帰国してしまったため、やや中国人中心の街へと変っていった。1930年代には震災から完全に復興し中国人中心とした街として賑わい見せた1932年昭和7年)の『横浜市史稿・風俗偏』では南京町先ず目に入るのは料理店であるとし、何々称する料理店20あまりに達したとしている。1934年昭和9年7月23日の『横浜貿易新報』では「南京街の支那料理」を横浜自慢として紹介している。しかし、1937年昭和12年7月7日勃発した日中戦争多く華僑帰国し閉店した店も多い。 第二次世界大戦後復興期横浜港賑わいイギリスの植民地である香港との往来復活した横浜市街地は連合国軍の空襲により焦土化し物資不足に見舞われていたが、横浜中華街戦勝国である中華民国からの物資恵まれ1946年昭和21年2月20日の『神奈川新聞によれば中華街営業していた飲食店96であった終戦直後豊富な物資背景とした、闇市としての役割果たしたが、徐々に物資が行き渡るようになり、数年闇市としての役割終了した。 それと引き換えに、山下公園周辺駐留する連合国軍兵士外国人船員増加し、街も賑わい見せたしかしながら1950年代初頭朝鮮戦争休戦したことに伴い在日米軍基地縮小され人通り少な静かな町へと変貌した街灯もない街に日本人良いイメージ持たず日本人寄り付かないとなっていた。

※この「「南京街」」の解説は、「横浜中華街」の解説の一部です。
「「南京街」」を含む「横浜中華街」の記事については、「横浜中華街」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「「南京街」」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「「南京街」」の関連用語

「南京街」のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



「南京街」のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの横浜中華街 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS