「南京街」
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1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災でこの地区は大打撃を受けて瓦礫と化した。欧米人の多くが帰国してしまったため、やや中国人中心の街へと変っていった。1930年代には震災から完全に復興し、中国人を中心とした街として賑わいを見せた。 1932年(昭和7年)の『横浜市史稿・風俗偏』では南京町で先ず目に入るのは料理店であるとし、何々楼と称する料理店が20軒あまりに達したとしている。1934年(昭和9年)7月23日の『横浜貿易新報』では「南京街の支那料理」を横浜自慢として紹介している。しかし、1937年(昭和12年)7月7日に勃発した日中戦争で多くの華僑が帰国し、閉店した店も多い。 第二次世界大戦後の復興期に横浜港は賑わい、イギリスの植民地である香港との往来も復活した。横浜市街地は連合国軍の空襲により焦土と化し物資不足に見舞われていたが、横浜中華街は戦勝国である中華民国からの物資に恵まれ、1946年(昭和21年)2月20日の『神奈川新聞』によれば、中華街で営業していた飲食店は96軒であった。終戦直後は豊富な物資を背景とした、闇市街としての役割を果たしたが、徐々に物資が行き渡るようになり、数年で闇市としての役割は終了した。 それと引き換えに、山下公園周辺に駐留する連合国軍兵士や外国人船員が増加し、街も賑わいを見せた。しかしながら1950年代初頭に朝鮮戦争が休戦したことに伴い在日米軍基地も縮小され、人通りの少ない静かな町へと変貌した。街灯もない街に日本人は良いイメージを持たず、日本人が寄り付かない街となっていた。
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