「南宮法性大明神」
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タケミナカタ(諏訪明神)の尊称の中で「南宮大明神」と「法性大明神」、またはこの二つを組み合わせた「南宮法性大明神」や「法性南宮大明神」というのがある。 『画詞』をはじめ中世文書には「正一位法性南宮大明神」「南宮法性大明神」「諏訪法性上下大明神」等が見られる。後奈良天皇は天文22年(1553年)に「諏方正一位南宮法性大明神」の宸筆を諏訪に下したという。武田信玄の軍旗と伝えるものには「諏訪南宮法性上下大明神」と書かれており、諏訪大社に伝わるその兜も「諏訪法性兜」と呼ばれている。このように、これらの神号は中世以来一貫して使用されて、いわば諏訪明神の正式呼称であった。 「法性」とは、法性身(法身)のことで、無色無形の真如を虚空に喩えたものを指す。これは「我に於いて体なし」という諏訪明神の神勅と符合する。また、密教的には法性身は有色有形の法身大日如来を指すことから、「法性神」は大日如来と同様に唯一にして根源的な存在、すなわち最高神を意味するとも解釈できる。 一方「南宮(なんぐう)」の由来についてはいろんな説がある。 諏訪明神は南閻浮州(人間が住むこの世界)に示現した法性神とされたことから 諏訪社は美濃国の仲山金山彦神社(南宮大社)や伊賀国の敢國神社(南宮大菩薩)とは関係があったことから 『梁塵秘抄』の中で「南宮(なんぐ)の本山は 信濃の国とぞうけたばる さぞまうす 美濃の国には中の宮 伊賀の国にはおさなき 稚(ちご)の宮」と歌われるように、中世においてはこの三社が「南宮三社」として知られていた。(敢國神社は甲賀三郎伝説にゆかりのある神社でもある。) 諏訪明神は帝の王宮の南面の守護神とされたことから 諏訪社は信濃国の南部(南信地方)にあることから 諏訪上社は諏訪湖の南方に位置することから 諏訪上社は下社に対して南にあることから 『延喜式』神名帳に書かれている「南方刀美神社」から 中世の写本では「南方刀美(みなかたとみ)」の「南方」には「ナンハウ」「ナハウ」の傍訓がついている。そこから転じて、「南宮」という呼称が生まれたのかもしれない。
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