「協定」の放送
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「中華人民共和国によるチベット併合」の記事における「「協定」の放送」の解説
1951年5月26日には、中華人民共和国の国営放送局である中国国際放送を通じてンガプーにより協定署名の件が放送された。なお、この合意について国連は、1959年の「チベットの地位に関する法律会議」で無効としている。 ダライ・ラマ14世はチベット南部のヤトンに避難していたが、持っていたラジオで中華人民共和国側が流しているンガプーによるチベット語放送を聞いて、驚愕した。そもそもンガプーらにはチベット独立の主張を取り下げたり、中国への併合を取り決める協定を結ぶような権限を与えていなかったし、協定を結ぶのに必要な国璽は持たせていなかったから、そんなことはそもそも不可能なはずだったからである。 ダライ・ラマ14世は協定締結のニュースを聞き、ンガプーの越権行為に衝撃を受けるが、パンチェン・ラマは同1951年5月30日にダライラマに対して「中国政府の指導の下、チベット政府に協力する」と表明した。なお、ンガプーはその後のチベットにおける中国共産党の忠実な代弁者となった。 1951年7月、協定に調印したチベット外交団(ンガプーを除く)と中国人民解放軍ラサ駐留司令官の張経武将軍がヤトンを訪れ、ダライ・ラマ14世に条約の有効性を認めるよう求めた。アメリカはダライ・ラマ14世に対し、亡命して協定の無効を訴えるよう呼びかけていたが、多くの僧侶がダライ・ラマ14世のラサ帰還を望んだため、結局ラサに戻って協定に基づいた改革をはじめることとなった。 1951年9月6日、ダライ・ラマ14世は9ヶ月ぶりにラサに戻り、その3日後に3000人の中国人民解放軍がラサに進駐した。チベット政府内で協定を認めるかどうかが話し合われたが、ラサの三大僧院長の強い意向もあり、9月末には議会で承認された。1951年10月24日、ダライ・ラマ14世は、「協定を承認し中国人民解放軍の進駐を支持する」旨の手紙を毛沢東に送った。この手紙はその後中華人民共和国の中国共産党政府が正当性を主張するのに大いに利用された。 ユン・チアンによれば、「十七か条協定」は、中華人民共和国側にとっても時間稼ぎの意味があった。高地に慣れていない中国人民解放軍の兵士にとって、大軍を送り込む道路のない中央チベットは難攻の地であったためである。中華人民共和国側はチベットに実質上の自治を与えるかのような態度を見せ、「ダライ・ラマをチベットの『元首』と認め」、チベット代表達を安心させる発言を繰り返した。しかし1956年初旬に中華人民共和国内からチベットにつながる幹線道路が完成すると、直ちに中国人民解放軍による攻撃が再開され、チベットの反乱を呼ぶこととなった。
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