「協定」の放送とは? わかりやすく解説

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「協定」の放送

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 06:32 UTC 版)

中華人民共和国によるチベット併合」の記事における「「協定」の放送」の解説

1951年5月26日には、中華人民共和国国営放送局である中国国際放送通じてンガプーにより協定署名の件が放送された。なお、この合意について国連は、1959年の「チベット地位に関する法律会議」で無効としている。 ダライ・ラマ14世チベット南部のヤトンに避難していたが、持っていたラジオ中華人民共和国側が流しているンガプーによるチベット語放送聞いて驚愕したそもそもンガプーらにはチベット独立主張取り下げたり中国への併合取り決める協定を結ぶような権限与えていなかったし、協定を結ぶのに必要な国璽持たせていなかったから、そんなことはそもそも不可能なはずだったからである。 ダライ・ラマ14世協定締結ニュース聞き、ンガプーの越権行為衝撃を受けるが、パンチェン・ラマは同1951年5月30日ダライラマに対して中国政府指導の下、チベット政府協力する」と表明した。なお、ンガプーはその後チベットにおける中国共産党忠実な代弁者となった1951年7月協定調印したチベット外交団(ンガプーを除く)と中国人民解放軍ラサ駐留司令官張経武将軍がヤトンを訪れダライ・ラマ14世条約有効性認めるよう求めたアメリカダライ・ラマ14世対し亡命し協定無効訴えるよう呼びかけていたが、多く僧侶ダライ・ラマ14世ラサ帰還望んだため、結局ラサ戻って協定基づいた改革をはじめることとなった1951年9月6日ダライ・ラマ14世は9ヶ月ぶりにラサ戻りその3日後に3000人の中国人民解放軍ラサ進駐した。チベット政府内で協定認めかどうか話し合われたが、ラサ三大僧院長の強い意向もあり、9月末には議会承認された。1951年10月24日ダライ・ラマ14世は、「協定承認し中国人民解放軍進駐支持する」旨の手紙を毛沢東送ったこの手紙はその後中華人民共和国中国共産党政府正当性主張するのに大い利用された。 ユン・チアンによれば、「十七か条協定」は、中華人民共和国にとっても時間稼ぎの意味があった。高地慣れていない中国人民解放軍兵士にとって、大軍送り込む道路のない中央チベット難攻の地であったためである。中華人民共和国側はチベット実質上の自治与えるかのような態度見せ、「ダライ・ラマチベットの『元首』と認め」、チベット代表達を安心させる発言繰り返した。しかし1956年初旬中華人民共和国内からチベットにつながる幹線道路完成すると、直ち中国人民解放軍による攻撃再開されチベット反乱を呼ぶこととなった

※この「「協定」の放送」の解説は、「中華人民共和国によるチベット併合」の解説の一部です。
「「協定」の放送」を含む「中華人民共和国によるチベット併合」の記事については、「中華人民共和国によるチベット併合」の概要を参照ください。

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