地すべり災害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 03:43 UTC 版)
1976年頃の地附山(左)と1985年地すべり災害直後の地附山(右)バードラインが寸断されていることが見て取れる。左の写真の中央に、建設中の松寿荘が見える 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 1985年(昭和60年)7月20日頃から木の根が切れる音や、戸隠バードラインでの亀裂、斜面の小崩落などの前兆現象があり、行政による監視体制が続いていたが、7月26日午後5時ごろ、大轟音とともに大規模な地すべりが発生。南東側の斜面が幅約450 m、長さ約350 mに渡って削り取られたようになった。移動した土砂は500万 m3ともいわれている。地滑りの様子はテレビ局により撮影され、麓の建物が倒壊する瞬間が茶の間に流された。 地すべりにより、斜面にあった戸隠バードラインは寸断(以降、復旧は断念された)。老人ホーム「松寿荘」の一部建物が押しつぶされ、危険に気づいた職員らにより一部は助け出されたものの多数の死者を出した。戸隠バードラインの建設と地すべり発生の因果関係は、1997年(平成9年)6月に長野地方裁判所は「県の戸隠有料道路の管理上の瑕疵(かし)が地すべりの原因になった」という判決を下している。なお、田中康夫長野県知事(当時)により一旦建設計画が中止された浅川ダムは、同じ地附山の北東側に位置し、地すべりの懸念が建設反対派の根拠のひとつになっていた。その後、浅川ダムは2010年(平成22年)に建設に着手し、2017年(平成29年)に完成した。 長野県警は災害警備本部を設置。消防などと連携し、27日には土砂に埋もれた松寿荘から19人が救出される。山のふもとにある長野市立湯谷小学校は、土砂が押し寄せた湯谷団地や家が全半壊した住民らの避難所となり、全国レベルを誇った児童合唱部が被災者の心を癒した。校内の敷地にある「支えられて」のモニュメントは、災害時の教訓を後世に伝えるために設置された。 1986年(昭和61年)の警察白書によると、最終的な死者は26人、負傷者は14人、全半壊家屋60棟。動員した警察官はのべ7000人。車両はのべ1100台が投入された。 災害の直後、日本航空123便墜落事故が発生したせいか、8月中旬以降は報道も縮小。それでも、しばらく山肌は削り取られたままの姿を残していて、植林などが進んだ今でこそわかりにくくはなっているが、今でも長野市民に土砂災害のすさまじさを伝え続けている。 この災害の際に全国から1億4,529万7,912円の義援金が集まったが、長野市地域広域行政事務組合の施設である松寿荘再建を目的に、5,000万円の義援金を長野市地域広域行政事務組合に配分した。さらに長野市地域広域行政事務組合へ1,461万1,709円の義援金が集まり、長野市地域広域行政事務組合が取得した。松寿荘は、元の場所から東に位置する長野市上野2丁目に再建された。
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