時代背景と下関戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 07:28 UTC 版)
「長州藩下関前田台場跡」の記事における「時代背景と下関戦争」の解説
前田台場は、攘夷論の高まった幕末に長州藩が関門海峡沿いに築造した砲台の一つで、幕末の1863年から1864年にかけて発生した下関戦争の舞台となった。 文久3年(1863年)3月、江戸幕府14代将軍徳川家茂は上洛し、孝明天皇に拝謁した(孝明天皇の異母妹である和宮が家茂に嫁しているため、家茂から見て孝明天皇は義兄にあたる)。将軍の上洛は3代家光以来約230年ぶりのことであった。家茂の上洛は表向きは公武合体の推進のためであったが、朝廷側のねらいは幕府に攘夷の実行を迫ることにあった。同年4月20日、将軍後見役の徳川慶喜は攘夷実行の期日を5月10日とすることを天皇に上奏した。幕府側の想定していた攘夷実行とは、港の封鎖等のことであり、必ずしも外国船を武力で排撃するようなことではなかった。攘夷期日とされた5月10日までには20日間の猶予しかなく、長州以外の諸藩では攘夷実行の布告を無視したが、強硬な攘夷論を主張していた長州藩では、5月10日以降、関門海峡を通過する外国船への砲撃を開始した。 文久3年5月10日(1863年6月25日)、長州藩はアメリカの商船ペンブローク号を砲撃。同船は退却した。5月23日(同年7月8日)にはフランスの通報艦キャンシャン号を砲撃。5月26日(同年7月11日)には長年日本の友好国であったオランダの外交代表ポルスブルックが乗ったメデューサ号を砲撃した。ペンブローク号砲撃のニュースを知ったアメリカは幕府に抗議し、報復のためワイオミング号を下関へ向かわせた。6月1日(同年7月16日)、同船は長州藩の軍艦壬戌丸と庚申丸を撃沈し、癸亥丸を大破させた。フランスも報復のためセミラミス号とタンクレード号を派遣。6月5日(同年7月20日)に前田台場を砲撃のうえ、上陸し、周囲の民家を焼き払った。 米仏の報復攻撃を受けた長州藩は、高杉晋作に下関の防衛をまかせ、高杉は志願兵による奇兵隊を結成する。長州藩は前田砲台を修復するなどして、さらなる攘夷実行に向けて体制を整えた。翌元治元年(1864年)、駐日イギリス公使オールコックは、日本の開国の障害となっている長州を武力攻撃することを決意。フランス、オランダ、アメリカもこれに同調した。元治元年6月19日(1864年7月22日)、英仏蘭米の4か国の代表は幕府に対し、20日以内に長州藩による海峡封鎖が解かれなければ武力攻撃を行う旨を通告することを決めたが、長州藩は海峡封鎖解除に応じなかった。8月5日(同年9月5日)、イギリスのキューパー中将を中心とする四国連合艦隊17隻(イギリス9隻、フランス3隻、オランダ4隻、アメリカ1隻)は、下関を攻撃。砲台は破壊され、長州藩は惨敗した。8月8日(同年9月8日)、連合艦隊の旗艦ユーライアラス号の艦上で講和談判が行われ、長州側からは高杉が使節として交渉に臨んだ。その結果、賠償金300万ドルの支払いなどを条件として講和が成立した。以上の一連の経過を下関戦争という。また、1863年の事件を下関事件、1864年の事件を四国艦隊下関砲撃事件と区別して呼ぶ場合もある。
※この「時代背景と下関戦争」の解説は、「長州藩下関前田台場跡」の解説の一部です。
「時代背景と下関戦争」を含む「長州藩下関前田台場跡」の記事については、「長州藩下関前田台場跡」の概要を参照ください。
- 時代背景と下関戦争のページへのリンク