時代背景と西洋医学がもたらしたもの
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 01:47 UTC 版)
「胡蝶の夢 (小説)」の記事における「時代背景と西洋医学がもたらしたもの」の解説
この小説の舞台となっている時代は、安政から明治にかけてのいわゆる幕末であり、その時点で初めて西洋医学の組織立った学校が登場したこと、オランダ人医師ポンペにより、四民平等の思想が、医療を通じて徐々に浸透してゆく。タイトルの「胡蝶の夢」は荘子の言葉から来ており、作品の終わりの方で、伊之助が結核にかかって、熱に浮かされながら駕籠に揺られている途中に、かつて読んだ荘子を思い出し、夢と現との見境がつかない状態で「俺は蝶だぞ」と叫ぶ場面でそれが描かれている。「胡蝶の夢」は、荘子が夢に蝶の飛ぶ姿を見て、人間だと思っていた自分は実は蝶で、蝶が夢を見て人間になっているのか、またはやはり人間で夢に蝶を見ているのかという説話であるが、司馬はこれに関し、松本良順が蘭方医学を引き写しで学んだだけで、生身の本人とは違った姿で、封建社会の終わりに蝶のごとく舞ったことをもまた、荘子の胡蝶の夢になぞらえている。 その後、1988年の順天堂大学における講演で司馬は、江戸時代の日本は医者の身分が高く、それが優秀な医学の人材を育てたとも言う。また、資本主義の段階において合理主義が日本社会に根付き、それが近代化を助けたとも述べている一方で、江戸時代を象徴する身分制を否定した西洋医学についても触れている。以下のポンペの言葉は、長崎大学医学部校是ともなっている。 医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。 江戸時代という封建社会の中で、医師にとっては階級差別、貧富・上下の差別はなく、ただ病人があるだけであると、身をもって実践し、また教えていた。また、「医者はよるべなき病者の友である」ともポンペは言い、司馬自身も講演で、この言葉に言及し、病者の友たる医者の存在を求めている。 この作品の中で、司馬は江戸期の身分制度に言及し、ポンペの持ち込んだ西洋医学はまた、当時のオランダの社会そのものを具現しているともしている。当時の日本の場合は、身分ごとに医師が分かれており、そのため、ポンペがコレラの大流行時以前から見せていた、身分の区別のない「医者と病者」という区分は、良順にとっては目からうろこが落ちるような思いであった。附属病院を作る際にもこの思想が基盤になっている。 これに関して、司馬は「胡蝶の夢の連載を終えて」で、身分制社会からの浮上方法としての蘭学、また医学に感じた限界について語っており、適塾と順天堂の違いについても触れている。この小説のテーマともなっている身分制社会からの浮上、また、江戸の身分制を切り裂く存在としての西洋医学(蘭学)に関しては小説中にも述べているが、いずれにせよこの存在が、江戸期の日本というものを大きく変えてゆき、また、断片的な知識の授与であった日本の西洋医学が、ポンペの授業によって組織的になったことも意義深いとしている。
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