時代背景・著者
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サアディーが生まれた当時のシーラーズは、アタベクの政権であるサルガル朝の統治下にあった。父親は君主サアド・ブン・ゼンギー(Atābak ʿIzz al-Dīn b. Saʿd)(1195年-1226年)に仕えており、サアディーの幼少時に亡くなったが、その教育や道徳観は彼に大きな影響を与えた。母親も若くして失ったサアディーは、サアド・ビン・ゼンギーによってバグダードのニザーミーヤ学院に留学をして1226年頃まで各種の学問を習得し、ペルシア語に加えてアラビア語にも堪能になった。 バグダードの学究生活を終えると、サアディーは各地を旅するようになる。旅費を工面するために托鉢をして質素な生活を行い、詩作をしながら各地を旅し、権力者から一般の人々まで広く交友した。旅の期間は1226年頃から1256年までの約30年間にわたり、このため彼は大旅行家としても知られているが、旅行記のたぐいは書いていない。1256年に故郷のシーラーズに帰ったサアディーは『果樹園』(1257年)と『薔薇園』(1258年)を執筆し、晩年までシーラーズの郊外で暮らした。シーラーズでの交友には、イル・ハン朝の宰相シャムス・ウッディーン・ムハンマド・ジュワイニーと、バグダード太守も務めた学者アラー・ウッディーン・アター・マリク・ジュワイニーの兄弟がおり、サアディーは生活を保障されて暮らすことができた。
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時代背景・著者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 14:43 UTC 版)
12世紀から地中海貿易で栄えていたイタリア都市国家の影響力が低下しつつある時代だった。イタリア戦争(1494年-1559年)によってシャルル8世のフランス軍がイタリアを攻撃し、これ以降、イタリアはナポレオン戦争(1796年-1797年)にいたるまでたびたび戦乱の影響を受けた。スペインやポルトガルが大西洋やインド洋に進出を始め、地中海貿易に代わって世界経済に影響を及ぼすようになる。文化面ではルネサンスが活発で、分野を超えた交流も盛んに行われた。当時の数学は商業計算はもちろん、天文学・占星術・芸術においても重要だった。簿記の分野では、専門の簿記係(quadernieri)や商人ではない学者が数学研究の題材に商業算術や簿記を使い、結果的に簿記の普及に貢献した。ベネデット・コトルリや、のちのジェロラモ・カルダーノと同様に、パチョーリもその一人だった。 著者のパチョーリはトスカーナのボルゴ・サンセポルクロに生まれ、少年時代に画家ピエロ・デラ・フランチェスカから数学を学んだ。フランチェスカはパチョーリを連れてウルビーノ公国に行き、パチョーリはウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに図書館の利用を許されるようになった。1464年(19歳)の頃にパチョーリはヴェネツィア商人アントニオ・デ・ロンピアージの息子の家庭教師となり、この時期に簿記の知識を身につけたと推測されている。数学教授となったパチョーリは教育法を評価されて各地の大学に招聘され、その経験を著作にも活かした。ウルビーノ滞在中には『スンマ』の執筆のために図書館に通い、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロとの交流が始まる。グイドバルドはフェデリーコの嗣子であり、『スムマ』の執筆を援助した。このため『スムマ』の冒頭には、ウルビーノ公への献辞がある。 グーテンベルクの活版印刷技術は1460年代からイタリアに導入され、ヴェネツィアはヨーロッパ最大の印刷センターとなった。ヴェネツィアの印刷は鮮明さ、紙質、字体で定評があり、商業が発展していたヴェネツィアは印刷の販路も見つけやすかったとされる。
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