壬生浪士組副長に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:34 UTC 版)
文久3年(1863年)2月、将軍警護と尊王攘夷を目的に清河八郎が浪士組を組織すると、山南は近藤らとこれに参加して上洛する。まもなく清河が攘夷実行を掲げて江戸に帰還することになると、これに反対した水戸藩浪士の芹沢鴨や近藤らは京都に残り、山南もこれに従った。この一隊が京都守護職を務めていた会津藩預かりとなって壬生浪士組を名乗るようになる。その後主導権争いから3月から4月にかけて殿内義雄と家里次郎が粛清され、これにより芹沢派と近藤派が壬生浪士組を牛耳ることになると、山南は近藤派の土方歳三と共に副長に就任した。3月6日、七言絕句に書いた。「牢落天涯志不空、尽忠唯一在刀中。何辞万里艱難路、早向皇州好奏功」。
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