松平長恒とは? わかりやすく解説

松平長恒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/24 07:32 UTC 版)

 
松平長恒
時代 江戸時代中期
生誕 正徳6年3月2日1716年4月23日
死没 安永8年3月20日1779年5月6日
改名 勝千代(幼名)、長恒
別名 勘九郎(通称
戒名 影現院殿心誉想月忠厳大居士
墓所 山形県上山市軽井沢の浄光寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
出羽上山藩
氏族 藤井松平家
父母 父:松平信通、母:熊谷氏
兄弟 次郎四郎、長恒
養子:信将
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松平 長恒(まつだいら ながつね)は、江戸時代中期の大名出羽国上山藩の第2代藩主。藤井松平家嫡流8代。

生涯

正徳6年(1716年)3月2日、松平信通の次男として誕生した。

享保7年(1722年)、父の死去により家督を継いだが、生来から病弱で藩政を執れなかったため、享保17年12月12日(1733年)に傍流の伊賀守家より信将を養子に迎え、家督を譲って隠居した。長恒は将軍への御目見を果たしていなかったが、親族の合意として信将への相続願いが出され、藤井松平家は由緒ある徳川(松平)家の庶流一族であることから、特例としてこの請願が認められる形となったとされる[1]

正室を迎えてもいないほどに、上述のように病弱であったとされるにもかかわらず、長恒は信将より18年も長生きし、安永8年(1779年)3月20日に死去した。享年64。

ただし異説として、長恒は享保13年(1728年)10月4日に13歳で病死していた、とする説がある。その後は家臣団によって長恒の影武者として家臣の子が立てられ、末期養子出願の基準となる17歳までしのいだ後に、藤井松平家の血縁の縁者への家督相続が進められた、とする説である[2]

系譜

父母

養子

脚注

  1. ^ 『お家相続 大名家の苦闘』p.204-205
  2. ^ 『お家相続 大名家の苦闘』p.210-211:『上山市史』が引く松平家の史料による。

参考文献





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