正寿院_(蒲生忠知正室)とは? わかりやすく解説

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正寿院 (蒲生忠知正室)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 20:03 UTC 版)

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正寿院(しょうじゅいん、元和2年(1616年)-元禄13年(1700年6月)は、江戸時代前期の女性。磐城平藩主内藤政長の七女。伊予松山藩蒲生忠知の正室。

寛永5年7月5日1628年8月4日)、13歳で伊予松山藩主の蒲生忠知に嫁ぐ。忠知は11歳年上ではあったが、蒲生氏郷徳川家康を祖父に持っていた。細川忠興が国元に送った書状では、宴席は3日間にわたって行われ、最終日の7日には忠知の母方の伯父にあたる大御所徳川秀忠とその息子の将軍徳川家光も参加している[1]

忠知には寛永8年(1631年)、嫡男の鶴松が生まれているが、忠知の幼名である「鶴松」が与えられ、家中でも直ちに蒲生家の嫡男として遇されていることから、正寿院が生んだ可能性が高い。しかし、寛永10年(1633年)9月を最後にその動向が分からなくなることから、それから程なく亡くなったと推測される[2]

ところが、寛永11年8月18日1634年10月9日)に忠知が滞在先の京都で急死してしまう。忠知に男子がいなかったために本来は直ちに改易になるところであったが、この時正寿院が懐妊していたためにその結果を待って取り扱い方を決めることになった。しかし、同年冬に生まれたのが女子であったために伊予松山藩は改易が決定された。ただし、江戸幕府では誕生した娘が徳川家康の曾孫にあたることを配慮して、将来的に婿を迎えて蒲生家を再興することも検討されていたが(『蒲生古蹟考』)、寛永13年8月9日1636年9月8日)に娘も死去したことで蒲生家再興の道は閉ざされたという。正寿院は元禄13年(1700年)6月に85歳で死去したと伝えられている(『断家譜』)[3]

脚注

  1. ^ 尾下(谷)、P264-265.
  2. ^ 尾下(谷)、P278-279.
  3. ^ 尾下(谷)、P264.

参考文献

  • 尾下成敏「蒲生氏と徳川政権」(初出:日野町史編さん委員会編『近江日野の歴史』第二巻 中世編 第四章第三節、2009年/所収:谷徹也 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第九巻 蒲生氏郷』(戒光祥出版、2021年)ISBN 978-4-86403-369-5



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