海部騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/08 04:29 UTC 版)
参勤交代により江戸に出ることが多く、その際に大老の酒井忠世と親しくなり、幕府の人脈を使い海部郡の藩主としての独立を企てた。独立のために禁制を破って材木を伐採し江戸に運んで資金をつくっていたことが徳島藩の役人に摘発され、長行は領地を召し上げられ、その後13年間幽閉された。 これを恨んだ長行は1645年(正保2年)までに徳島藩主の蜂須賀忠英が幕府禁制を破り大船を建造し、さらに切支丹への宗門改めを怠っていると訴えた。 1646年(正保3年)、幕府は評定所にて長行と徳島藩の家老である長谷川貞恒を対決させた。結果、長行の訴えが虚偽であったとして長行の身柄は忠英に預けられた。これら一連の事件を海部騒動と呼ぶ。 1646年(正保8年)、江戸から阿波への移送中に病死した。一説には江戸屋敷にて斬刑されたともされる。墓所は徳島県徳島市丈六町の丈六寺。
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海部騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 23:03 UTC 版)
寛永10年(1633年)、海部郡内7,500石を領する江戸家老の益田長行(益田豊後)が禁制を破って山林の木を伐採、江戸で売ろうとしたことを藩の役人が摘発し、長行は領地を召し上げらる。その後、長行は13年間幽閉された。これを恨んだ長行は正保2年(1645年)までに「忠英が幕府禁制を破り大船を建造し、さらに切支丹への宗門改めを怠っている」と幕府に訴えた。正保3年(1646年)、江戸幕府は評定所にて長行と長谷川貞恒を対決させた。結果、長行の訴えが虚偽であったとして長行の身柄は忠英に預けられ、阿波への移送中に病死したとも江戸屋敷にて斬刑されたともされる(海部騒動)。
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