富士家の家督争い
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寛正年間から文正年間にかけて富士家では家督争いが発生した。これは忠時とその父である富士祐本との間で起こった確執から由来し、この動向が『親元日記』寛正6年(1465年)7月朔日条に記されている。 祐本は子息の忠時ではなく孫の宮若丸(富士親時)への家督相続を望んだため(悔返)、これに対し忠時は反発した。これらの争いは祐本による幕府への注進状や今川氏を介して将軍足利義政にも伝わり、義政は祐本の主張を認定した。それを見た祐本は、この一連の取次を行った幕府政所頭人伊勢貞親に対し礼として礼銭を納めている。 一方忠時は堀越公方足利政知に働きかけを行い、政知は義政へと報告を行った。結果忠時は宥免されることとなった。しかしこの決定に祐本は強く反発したため、義政は文正元年(1466年)10月11日の政知宛の御内書で祐本の行いを非難し、また宮若丸へ富士大宮司職を移行するよう改めて伝えている。これにより、お家騒動の一応の終着を迎えた。 この富士家の家督争いの存在が、当時今川義忠が幕府の関東出陣命令に呼応できなかった一因であった可能性が指摘されている。
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