富士屋ホテル事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 01:04 UTC 版)
同じ五島慶太を師に仰ぎ、その五島から箱根の強羅ホテルを買った小佐野賢治がインテリに対する劣等感をぬぐえずにいたことに比べると、能天気でお気楽で執着心の強い横井の方が世間の注目を集めた。そして、この2人は富士屋ホテルの支配権争奪をめぐり火花を散らすことになる。冨士屋ホテルは1878年(明治11年)に山口仙之助が箱根の宮ノ下に開業した名門ホテルであるが、山口一族に内紛がおきる。当時の会長の山口堅吉は仙之助の次女・貞子の婿養子であった。その妻の貞子が死去し、千代という後妻をもらう。仙之助の長女である孝は、山口一族と縁もゆかりもない堅吉夫妻にホテル経営をされることに反発をおぼえ、横井の手を借りることになる。 1964年(昭和39年)12月に株主総会が行われ、横井は堅吉の退陣に成功する。追放された堅吉は小佐野賢治のもとに赴きこう懇願した、「自分の株は全部渡す。一族も切り崩し、株を集める。自分は経営しなくていい、とにかく横井を追い出してくれ」と。小佐野は富士屋ホテルの買収に乗り出し、1年が経過したころ、横井側についていた山口家の本家側の者が徐々に小佐野側につき、取締役に入れた児玉誉士夫も小佐野側に寝返ってしまう。最終的に小佐野に軍配があがった。横井が6年かかって集めた株を小佐野は1年で82%にあたる207万株を手に入れ富士屋ホテルの買収に成功したのである。1966年(昭和41年)4月27日に児玉邸で株の受け渡しが行われたが、横井は株券を譲渡する際に、万札を一枚一枚、児玉、小佐野の目の前で数えて、朝の10時から始めて夕方の4時までかかり、これはさすがに児玉も小佐野もあきれたという。 1970年には京都にあるネジのトップメーカーである山科精工所(現・ヤマシナ)を乗っ取り、自らが会長に就任し長男の邦彦を取締役に据えるなど役員を肉親で固めた。
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