厚母元総とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 厚母元総の意味・解説 

厚母元総

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/07 13:55 UTC 版)

 
厚母元総
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正20年8月17日1592年9月22日
別名 通称:又次郎→七郎兵衛
戒名 珠岸宗玉
主君 毛利輝元
氏族 大江姓毛利氏流厚母氏
父母 父:厚母元員、母:毛利元種の娘
兄弟 元総、女(田原氏室)
山田石見守の娘
元知、女(村上氏室)
養子:頓野就忠、頓野就房
テンプレートを表示

厚母 元総(あつも もとふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣。父は厚母元員安芸国戦国大名毛利元就の同族。

出自

毛利元春の次男である毛利元房を祖とし、元房の子・元光の代から大内氏の麾下に属して、長門国豊西郡厚母郷[1]などに所領を与えられた。元光以降は元秀、元貞、元種元員、元総と系譜が続く。

生涯

毛利氏家臣である厚母元員の子として生まれる。

永禄11年(1568年2月12日毛利輝元の加冠状を受けて元服し、「元」の偏諱を与えられて「元総」と名乗った。

天正14年(1586年4月6日、祖父・元種譲状の旨に従って、輝元より父・元員と連名で長門国豊西郡厚母郷[1]100石の内の70石、長門国美祢郡於福郷上田代村[2]10石、厚母郷内の国衙の諸名田中の名主職などを安堵される。

天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役に従軍し朝鮮へ渡海したが、同年8月17日に戦死した。元総の戦死により、幼少の嫡男・元知が後を継いだが、幼少であることを理由に所領を輝元に没収された。

また、かつて祖父・元種が毛利元就隆元父子に自家の系図を献上する代わりに与えられた、裏書に元就と隆元の署名のある系図の写しが、元総の戦死の際に紛失している。

脚注

  1. ^ a b 現在の山口県下関市豊浦町大字厚母郷
  2. ^ 現在の山口県美祢市於福町上上田代。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「厚母元総」の関連用語

厚母元総のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



厚母元総のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの厚母元総 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS