志道元良とは? わかりやすく解説

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志道元良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/24 15:06 UTC 版)

 
志道元良
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 明応9年7月14日1500年8月8日
改名 毛利元良[1]→志道元良
別名 通称:太郎三郎[1]
戒名 晧泰紹安[1]
官位 大蔵少輔[1]
主君 毛利豊元弘元興元
氏族 大江姓毛利氏庶流坂氏志道氏
父母 父:坂広秋[1]
兄弟 坂広明[1]桂広澄[1]光永秀時[1]元良
女(赤川房信室)[1]、順侍者[1]
広良[1]
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志道 元良(しじ もとよし)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。通称は太郎三郎[1]、大蔵少輔[1]安芸国志道城主。父は坂広秋[1]坂広明桂広澄光永秀時の弟で、子に毛利元就を支えた志道広良がいる[1]

生涯

毛利氏の庶家で代々の毛利氏当主を補佐していた坂氏の当主・坂広秋の四男として生まれる[1]

応仁元年(1467年)、嫡男の広良が生まれる[1]

明応5年(1496年)、大内義興少弐政資攻めに従軍[2]。元良の参陣を喜んだ大内義興は同年9月20日に安留修理亮を使者として太刀一腰を元良に与えている[2]

明応5年(1496年)から明応6年(1497年)にかけて、居住していた安芸国高田郡志道村[注釈 1]の在名から「志道」の苗字を称した[3][4][5]

明応6年(1497年)8月25日備後国津田における合戦において数ヶ所の傷を蒙りながら戦った功により、9月28日に備後守護の山名俊豊から感状を与えられた[6]

明応9年(1500年7月14日に死去[1]。嫡男の広良が後を継いだ。

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 近世防長諸家系図綜覧 1980, p. 149.
  2. ^ a b 『閥閲録』巻16「志道太郎右衛門」第54号、明応5年(1496年)比定9月20日付け、毛利大蔵少輔(志道元良)殿宛て(大内)義興書状。
  3. ^ 高田郡史 上巻 1972, p. 159.
  4. ^ 舘鼻誠 1996, p. 268.
  5. ^ 『閥閲録』巻16「志道太郎右衛門」家譜。
  6. ^ 『閥閲録』巻16「志道太郎右衛門」第63号、明応6年(1497年)9月28日付け、志道大蔵少輔(元良)殿宛て(山名)俊豊感状。

参考文献




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