大多和元勝とは? わかりやすく解説

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大多和元勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/02 04:29 UTC 版)

 
大多和元勝
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正17年(1589年
死没 万治3年10月3日1660年11月5日
改名 大多和市若(幼名)→大多和元勝
別名 通称:与次→惣兵衛尉
主君 毛利輝元秀就綱広
長州藩
氏族 桓武平氏三浦氏大多和氏
父母 父:大多和元直
母:飯田元定の娘(佐世元嘉の養女)
正室:平佐元重の娘(中所元方の養女)
継室:小川光俊の娘
就勝、就弼、利次
養子:女(継室の連れ子、橋本就包室)
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大多和 元勝(おおたわ もとかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武士毛利氏家臣長州藩士。祖父は毛利水軍の将の一人として石山合戦などで活躍した大多和就重、父は大多和元直

生涯

天正17年(1589年)、毛利氏家臣である大多和元直の嫡男として生まれる。

天正20年(1592年)から始まる文禄の役に父・元直が従軍して朝鮮に渡ったが、文禄2年(1593年5月20日に戦死した。この時の元勝はまだ幼かったため、輝元は同年9月11日に元勝の外祖父にあたる佐世元嘉へ書状を出し、元直の後継は元勝とするので、元直の後家(佐世元嘉の娘)にも申し聞かせるよう述べている[1]。そして文禄3年(1594年4月3日、輝元は元勝に家督と234石余の所領[注釈 1]の相続を認めた[2]

慶長9年(1604年7月1日、輝元の加冠を受けて元服し、「元」の偏諱を与えられて「元勝」と名乗る[3]

慶長10年(1605年7月2日熊谷元直天野元信らが粛清された後の同年12月14日に書かれ、毛利氏家臣820名が連署して毛利氏への忠誠を誓った起請文に、元勝も424番目に「大多和与次」と署名している[4]

慶長13年(1608年12月13日には「惣兵衛尉」の官途名を与えられた[5]

その後、毛利秀就綱広の2代にも仕え、万治3年(1660年10月3日に死去。享年72。子の就勝が後を継いだ。

脚注

注釈

  1. ^ 備後国神石郡志摩利の内の80石6斗余と同所の12石6斗、備後国恵蘇郡多賀山100石余、周防国都濃郡の内の40石余。

出典

  1. ^ 『閥閲録』巻123「大多和惣兵衛」第37号、文禄2年9月11日付 佐世元嘉宛て毛利輝元書状。
  2. ^ 『閥閲録』巻123「大多和惣兵衛」第38号、文禄3年4月3日付 大多和元勝宛て毛利輝元書状。
  3. ^ 『閥閲録』巻123「大多和惣兵衛」第45号、慶長9年7月1日付 大多和元勝宛て毛利輝元加冠状。
  4. ^ 『毛利家文書』第1284号、福原広俊他819名連署起請文。
  5. ^ 『閥閲録』巻123「大多和惣兵衛」第46号、慶長13年12月13日付 大多和元勝宛て毛利輝元書状。

参考文献




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