福原俊秋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/13 02:04 UTC 版)
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| 時代 | 戦国時代 |
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 天文8年4月22日(1539年5月10日) |
| 別名 | 車瀬俊秋 通称:弥七郎[1]→次郎右衛門尉[1] |
| 戒名 | 境翁宗仙[1] |
| 主君 | 毛利元就 |
| 氏族 | 大江姓毛利氏庶流福原氏 |
| 父母 | 父:福原貞俊[1] |
| 兄弟 | 広俊[1]、元勝[1]、俊秋 |
| 妻 | 玉木就直の娘[1] |
| 子 | 就俊[2] |
福原 俊秋(ふくばら としあき)は、戦国時代の武将。毛利氏家臣。父は福原氏9代当主の福原貞俊[1]。兄に福原氏10代当主の福原広俊と福原元勝がいる[1]。毛利元就の母方の従兄弟にあたる[1]。
生涯
毛利氏庶流の福原氏9代当主・福原貞俊の三男として生まれる[1]。安芸国の車瀬に住んだことから、「車瀬」(くるまがせ)の苗字も名乗っている[1]。
大永3年(1523年)3月21日、毛利元就から安芸国山県郡壬生の内の一木7段を知行地として与えられる[3]。
天文8年(1539年)4月22日に死去[1]。法名は境翁宗仙[1]。子の福原就俊が後を継いだ。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。
OCLC 703821998。全国書誌番号:
73004060。
国立国会図書館デジタルコレクション - 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻67「福原二郎右衛門」
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