福原 信三 (ふくはら しんぞう)
1883〜1948 (明治16年〜昭和23年) |
【実業家】 徹底した美意識で会社経営。今や世界的化粧品ブランドSHISEIDOを作り上げた。 |
大正・昭和期の実業家。東京都出身。父は、帝国生命、資生堂の創始者福原有信。米国コロンビア大学に留学するなど、1913年(大正2)30歳で帰国するまで、欧米を歴訪し、化粧品やファッション、アートを学んだ。15年資生堂の経営に参加すると、シンボルマーク花椿をはじめ、ロゴタイプやパッケージ、宣伝物などのデザインに取り組み、アールデコを基調とする独特の資生堂のブランドイメージを確立した。27年株式会社資生堂の初代社長に就任。事業だけでなく、写真芸術家としても国内芸術に様々な貢献をした。 |
年(和暦) |
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●1883年 (明治16年) | ■鹿鳴館完成 | 0才 |
●1889年 (明治22年) | ■大日本帝国憲法発布 | 6才 |
●1894年 (明治27年) | ■日清戦争 | 11才 |
●1903年 (明治36年) | ■江戸開府300年 | 20才 |
●1904年 (明治37年) | ■日露戦争 | 21才 |
●1907年 (明治40年) | ■足尾銅山で暴動 | 24才 |
●1910年 (明治43年) | ■韓国併合 | 27才 |
●1918年 (大正7年) | ■米騒動 | 35才 |
●1923年 (大正12年) | ■関東大震災 | 40才 |
●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 | 45才 |
●1932年 (昭和7年) | ■五・一五事件 | 49才 |
●1936年 (昭和11年) | ■二・二六事件 | 53才 |
●1941年 (昭和16年) | ■対英米宣戦布告 | 58才 |
●1945年 (昭和20年) | ■ポツダム宣言受諾 | 62才 |
●1946年 (昭和21年) | ■日本国憲法公布 | 63才 |
・荒木 貞夫 | 1877年〜1966年 (明治10年〜昭和41年) | +6 |
・寺田 寅彦 | 1878年〜1935年 (明治11年〜昭和10年) | +5 |
・大河内 正敏 | 1878年〜1952年 (明治11年〜昭和27年) | +5 |
・吉田 茂 | 1878年〜1967年 (明治11年〜昭和42年) | +5 |
・有島 武郎 | 1878年〜1923年 (明治11年〜大正12年) | +5 |
・鏑木 清方 | 1878年〜1972年 (明治11年〜昭和47年) | +5 |
・永井 荷風 | 1879年〜1959年 (明治12年〜昭和34年) | +4 |
・大正天皇 | 1879年〜1926年 (明治12年〜昭和元年) | +4 |
・市川 左団次二世 | 1880年〜1940年 (明治13年〜昭和15年) | +3 |
・石井 柏亭 | 1882年〜1958年 (明治15年〜昭和33年) | +1 |
・高村 光太郎 | 1883年〜1956年 (明治16年〜昭和31年) | 0 |
・鳩山 一郎 | 1883年〜1959年 (明治16年〜昭和34年) | 0 |
・石橋 湛山 | 1884年〜1973年 (明治17年〜昭和48年) | -1 |
・東条 英機 | 1884年〜1948年 (明治17年〜昭和23年) | -1 |
・安田 靫彦 | 1884年〜1978年 (明治17年〜昭和53年) | -1 |
・三浦 環 | 1884年〜1946年 (明治17年〜昭和21年) | -1 |
・武者小路 実篤 | 1885年〜1976年 (明治18年〜昭和51年) | -2 |
・平塚 らいてう | 1886年〜1971年 (明治19年〜昭和46年) | -3 |
・山田 耕筰 | 1886年〜1965年 (明治19年〜昭和40年) | -3 |
・谷崎 潤一郎 | 1886年〜1965年 (明治19年〜昭和40年) | -3 |
・松旭斎 天勝 | 1886年〜1944年 (明治19年〜昭和19年) | -3 |
・柳 宗悦 | 1889年〜1961年 (明治22年〜昭和36年) | -6 |
福原信三
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福原 信三(ふくはら しんぞう、1883年(明治16年)7月25日 - 1948年(昭和23年)11月4日[1])は、日本の実業家、写真家。資生堂の創業者・福原有信の息子であり、株式会社資生堂の初代社長。弟に写真家の福原路草がいる。
来歴
東京府京橋区出雲町(現・東京都中央区銀座)[1]で資生堂薬局(当時)の福原家に生まれる。名前の「三」が示す通り福原家の三男であるが、長男の信一は身体が弱く、また二男の信二も幼少期に他界してしまったため、後継ぎとして育てられた。
中学時代は画家を志し、日本画家の石井鼎湖に入門するなどしたが、父の希望に従い薬学の道に進んだ[1]。千葉医学専門学校(現・千葉大学医学部)を卒業後、1908年(明治41年)に米国・コロンビア大学薬学部に留学[1]。卒業後はドラッグストアや化粧品工場で2年間働き、帰国して兄・信一と二人三脚で資生堂の経営をしていくこととなる。
経営にあたっては、資生堂を本格的に化粧品事業へ移行させ、また1916年(大正5年)には他の企業に先駆けて意匠部(現在の宣伝部)を発足させた。 意匠部では美術学校の学生や若手画家をスタッフにしてポスター、新聞広告、パッケージデザイン、店舗設計などを行った。
「商品をしてすべてを語らしめよ」が口癖で、“商品”を伝える商品名、容器、パッケージすべてに神経を使った。
家業を受継ぎ実業界で活躍する一方で、芸術をこよなく愛する文化人でもあった。資生堂のシンボルマーク「花椿」を考案したのも福原信三で、山名文夫がデザイン図案化した。
写真家としての活動
日本近代写真の黎明期に「写真芸術」の確立をめざして活動した。東洋写真会で宮内幸太郎の指導を受けた後、1921年(大正10年)、大阪の上田竹翁の次男である箸尾文雄、写真家の不動健治らとともに「藝術冩眞社」を興した。続いてピクトリアリズムの作風よりも写真本来の機能を重視した方向にむかい「冩眞藝術社」を作る。
1922年には写真集『巴里とセイヌ』を刊行。また『写真芸術』誌を創刊するなど、アマチュア写真家のリーダーとして活躍した。誌上で発表された論文『光と其諧調』(1923年)は多くの写真家に影響を与えた。1924年には日本写真会を結成し会長に就任[1]。1939年(昭和14年)には野島康三とともに国画会に写真部創設などの活動を行った[1]。
著書
- 『光と其諧調』写真芸術社、1923年3月。
- 『菊岡辰次郎写真遺作集』日本写真会、1926年4月。NDLJP:924868。
- 『日本写真会第五回展覧会優秀作品集』日本写真会、1929年9月。
- 『身辺風景』資生堂、1930年1月。
- 『西湖風景』日本写真会、1931年3月。NDLJP:1174860。
- 『巴里とセーヌ』日本写真会、1935年6月。
- 『松江風景』日本写真会、1935年6月。NDLJP:1259638。
- 『布哇風景』日本写真会、1937年3月。
- 『写真集 武蔵野風物』靖文社、1943年1月。
- 『武蔵野風物』大空社〈柳田國男の本棚 24〉、1998年6月。ISBN 978-4756807403。復刻
- 『随筆 写真を語る』武蔵書房、1943年5月。NDLJP:1069121。
- 『福原信三論説 写真芸術』武蔵書房、1943年8月。NDLJP:1069120。
- 没後出版
- 『福原信三・福原路草写真集 光と其諧調』ニッコールクラブ〈ニコンサロンブックス 3〉、1977年3月。ISBN 978-4900398177。非売品
- 『光とその階調 福原信三・福原路草写真集 1913年-1941年』 ワタリウム美術館、1992年
- 『光の詩情 福原信三の世界展』 飯沢耕太郎監修、資生堂、1994年。図録
- 『福原信三と福原路草 日本の写真家 3』 岩波書店、1997年9月。ISBN 978-4000083430
- 『写真家・福原信三の初心』 山田勝巳編著、福原義春回想「伯父、信三と路草、そして父と」、資生堂、2005年6月。ISBN 978-4763005168
- 『福原信三と美術と資生堂展』世田谷美術館 企画構成、求龍堂、2007年。図録(デザイン図版ほかを併録)
関連項目
脚注
「福原 信三」の例文・使い方・用例・文例
- 日本の最年少選手は,卓球女子の13歳の福原愛選手。
- 福原愛選手は,中国のペキン(北京)で開かれた五輪アジア予選の女子シングルスで3位となった。
- 15歳の福原選手は,史上最年少の日本人五輪卓球選手となる。
- 福原選手は3歳のときに卓球を始めた。
- 福原選手の家族は全面的に彼女を支援している。
- 福原選手は同じ年に生まれた。
- 福原選手は,アテネで世界の一流選手たちと対戦する覚悟ができている。
- 彼はスポーツ科学を専門とし,日本オリンピック委員会強化スタッフとして,福原愛選手や他の選手に助言している。
- 福原愛選手,全日本卓球選手権で2冠を獲得
- 福原愛選手は最初からたくさんの注目を集めた。
- 全日本の混合ダブルスの試合で,福原選手は坂本竜(りゅう)介(すけ)選手と組んだ。
- 福原選手は,女子ダブルスでは小(こ)西(にし)杏(あん)選手と組み,3年連続でタイトルを獲得した。
- このことは,福原選手に今年の全国選手権での2つの優勝をもたらした。
- 福原選手は今大会の時,16歳2か月だった。
- 今年の大会は,福原選手にとって新記録を作る最後のチャンスだったので,彼女はタイトルを獲得することを決意していた。
- 6回戦で,福原選手は末(すえ)益(ます)亜(あ)沙(さ)美(み)選手と対戦した。
- 福原選手は, 12―10,11―4,11―3と3ゲームを連続で失った。
- 福原選手は最終ゲームを9―8でリードしていたが,いくつかミスをし,ゲームに,そして試合に敗れた。
- 福原選手は,「あそこまで行って負けてくやしい。来年の大会に備えてもっと準備します。」と話した。
- 人気プロゴルファーの宮(みや)里(ざと)藍(あい)さんや卓球選手の福原愛さんを理由にそれを提案する人もいた。
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