楢崎景忠
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| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 慶長16年1月12日(1611年2月24日) |
| 別名 | 通称:太郎助、善左衛門尉 |
| 官位 | 佐渡守 |
| 主君 | 毛利輝元→秀就 |
| 藩 | 長州藩 |
| 氏族 | 湯原氏庶流 楢崎氏 |
| 父母 | 父:楢崎豊景 |
| 兄弟 | 信景、景政、景好、男子、景忠、 女(有地隆言室)、女(木梨隆盛室)、女(芥川元正室)、女(末国元光室)、女(小倉元悦室) |
| 子 | 就貞 |
楢崎 景忠(ならさき かげただ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。毛利氏の家臣。父は楢崎豊景。兄に楢崎信景、楢崎景政、楢崎景好。
生涯
備後国芦田郡久佐[注釈 1]の朝山二子城(楢崎城)を本拠とした国人である楢崎豊景の五男として生まれ[1]、毛利輝元、秀就の二代に仕えた。
慶長8年(1603年)11月1日、毛利輝元から「佐渡守」の受領名を与えられる[2]。
慶長10年(1605年)12月14日、同年の五郎太石事件の後に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、572番目に「楢崎佐渡守」と署名している[3]。
慶長16年(1611年)1月12日に死去[1]。子の就貞が後を継いだ。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-4 毛利家文書之四』東京帝国大学、1924年8月。
国立国会図書館デジタルコレクション - 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻130「楢崎善左衛門」
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