杉原隆盛
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 永禄10年(1567年)から永禄13年(1570年)の間[1] |
改名 | 杉原高盛[2]→隆盛[2]→元清[2] |
別名 | 椙原隆盛[2]、木梨隆盛[2] 通称:左衛門尉[3] |
官位 | 蔵人大夫[2]、越前守[2]、遠江守[2](受領名) |
主君 | 大内義隆→毛利元就→隆元→輝元 |
氏族 | 桓武平氏桑名氏流杉原氏 |
父母 | 父:杉原光恒[2] |
子 | 木梨元恒[2]、木梨経珍[2]、女(古志豊長室)[2]、女(天野元政側室)[2]、女(児玉元忠室)[2] |
杉原 隆盛(すぎはら たかもり)は、戦国時代の武将。備後国御調郡木梨庄[注釈 1]の鷲尾山城を本拠とする国人・備後杉原氏当主。毛利氏の家臣。同族に杉原盛重などがいる。
生涯
備後国御調郡木梨庄[注釈 1]を本拠とする国人である杉原光恒の子として生まれる[3]。
天文12年(1543年)6月、備後国へ攻め寄せた尼子氏の攻撃によって鷲尾山城は落城[3]。父・光恒は自害し、隆盛も捕縛され尼子氏の本拠である出雲国へ連行された。しかし、隆盛の従兄弟である杉原盛兼を中心とする杉原氏家臣団がは隆盛の奪還を狙った結果、隆盛は出雲国からの逃亡に成功し、大内義隆の支援で杉原氏を再興した[1][3]。
家名を再興してからは毛利元就に従って小早川隆景の指揮下に属し、天文21年(1552年)頃には隆景と義兄弟の契りを交わした[3]。
弘治3年(1557年)12月2日に毛利元就・隆元父子と毛利氏に属する備後国の諸領主が連名で乱暴狼藉を行った兵に対する処罰や勝手な陣払いの禁止を誓約した傘連判状形式の起請文に隆盛も「杉原越前守隆盛」と署名している[注釈 2][4]。
永禄10年(1567年)には毛利輝元から長門国豊浦郡宇賀荘において100貫を与えられた[5]が、永禄10年(1567年)から永禄13年(1570年)の間に、西隣の石原忠直に鷲尾山城を急襲され、流れ矢に当たり戦死した[1][5]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-1 毛利家文書之一』東京帝国大学、1920年11月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 新人物往来社 編『小早川隆景のすべて』新人物往来社、1997年11月。ISBN 4-404-02517-3。
- 舘鼻誠「小早川隆景関係人物事典」新人物往来社編『小早川隆景のすべて』新人物往来社、1997年11月、187-206頁。
- 田口義之「尾道市木之庄町 鷲尾山城と木梨杉原氏」備陽史探訪の会『備陽史探訪』、2009年2月。
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