杉原鐡城とは? わかりやすく解説

杉原鐡城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/18 15:35 UTC 版)

杉原 鐡城
杉原鐡城
生誕 1870年
死没 1938年昭和13年)
職業 詩人(?)
自称「未来の内閣総理大臣
テンプレートを表示

杉原 鐡城(すぎはら てつじょう、1872年1873年頃?[注釈 1] - 1938年昭和13年)12月13日[1])は、明治時代広島県一帯で[2]「広島の名物男」「未来の内閣総理大臣」として知られた人物[3]。彼は年中様々な人を訪れて自身が未来の内閣総理大臣になることを誓い、人々に本名ではなく「大臣」と呼ばれ笑って迎えられた[4]。別名、杉原 鉄一杉原 義威

人物・来歴

広島県佐伯郡宮内村(現・廿日市市)出身[3]。青年時代に伊藤博文書生をしていた[5]

風月吟社主宰の伊藤鴛城の門下生で[6]、文章やを巧みに行ったとされる[7]。また、その1年分の詩を印刷して有志に配布し、年会費1円以内を「租税」と称して徴収することを商売としていた[4]

韓国からの帰りに厳島弥山に登山した伊藤博文は、山上で杉原の抱負を述べた詩『登閣詩稿』を即吟した[4]

1912年明治45年)4月12日、広島朝鮮協会の広島朝鮮視察団の汽車に飛び乗り同行を申し込み同行する[8]

1938年昭和13年)12月13日脳溢血により神戸にて急死する[1]

著書

参考文献

脚注

注釈

  1. ^ 1909年(明治42年)9月15日発行の『珍物画伝』には「本年三十六歳」と記されている。

出典

  1. ^ a b 清聞子「風雅彙報(五則)」『漢詩』第2号、雅声社、1939年3月25日、59頁。 
  2. ^ 珍物子 1909, p. 109.
  3. ^ a b 薄田太郎 1973, p. 182.
  4. ^ a b c 珍物子 1909, p. 110.
  5. ^ 関牧翁 1973, p. 181.
  6. ^ 帝国聯合通信社 1935, p. 60.
  7. ^ 山道叶川「政治狂杉原鉄一」『大国民』第42号、大国民社、1911年12月1日、61-62頁。 
  8. ^ 広島朝鮮視察団 1913, p. 19.

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

杉原鐡城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



杉原鐡城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの杉原鐡城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS