野山朝経とは? わかりやすく解説

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野山朝経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/19 15:23 UTC 版)

 
野山 朝経
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 不詳
死没 不詳
別名 通称:清右衛門尉
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 藤姓野山氏
父母 父:野山益朝、母:庄勝資の娘
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野山 朝経(のやま ともつね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の家臣で長州藩士。父は備中国国人である野山益朝。

生涯

備中国賀陽郡野山[注釈 1]の野山城を本拠とする国人である野山益朝の子として生まれ、毛利氏に従う[1]

天正10年(1582年)の備中高松城の戦い後に行われた毛利氏と豊臣政権との国境画定(中国国分)によって、野山氏の所領がある備中国賀陽郡宇喜多氏に割譲されると、野山氏は長門国に移り住んだ[2]

天正19年(1591年)に母が死去し、文禄4年(1595年7月9日には隠居して備中国に戻っていた父・益朝が死去する[2]

慶長2年(1597年)から始まる慶長の役に朝経も従軍して朝鮮半島に渡り、同年12月22日から慶長3年(1598年1月4日にかけて行われた第一次蔚山城の戦いにおいて武功を挙げた。これにより、第一次蔚山城の戦いで功のあった毛利氏家臣を賞した慶長3年(1598年1月25日付の豊臣秀吉朱印状に朝経の名(野山清右衛門尉)も記されている[注釈 2][3]

慶長10年(1605年12月14日、同年の五郎太石事件の後に毛利氏家臣団や寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、朝経は191番目に「野山清右衛門尉」と署名している[4]

没年は不明だが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に毛利氏が周防国と長門国に減封されてから、30年程で家は断絶したとされる[2]

脚注

注釈

  1. ^ 現在の岡山県加賀郡吉備中央町
  2. ^ この時の秀吉の朱印状において名前を記されていたのは記載順に、宍戸元続、浅口元通(細川元通)、吉見広長三沢為虎、三吉元高、天野元信日野元重内藤元盛、三田元盛、和智元盛平賀元相、三尾元尚、三刀屋孝和、口羽元良成羽親成(三村親成)、桂元武、野山朝経、石蟹市郎、伊達三左衛門尉、赤木元重、周布長次、市川元好、吉田元重、馬屋原弥衛門、楢崎政友、福頼元秀、有地元盛[3]

出典

  1. ^ 賀陽町史 1972, pp. 198–199.
  2. ^ a b c 賀陽町史 1972, p. 202.
  3. ^ a b 『毛利家文書』第914号、慶長3年(1598年)比定1月25日付け、豊臣秀吉朱印状。
  4. ^ 『毛利家文書』第1284号、慶長10年(1605年)12月14日付け、福原広俊他819名連署起請文。

参考文献




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