熊谷直清_(戦国武将)とは? わかりやすく解説

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熊谷直清 (戦国武将)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/09 06:26 UTC 版)

 
熊谷直清
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄3年(1530年
死没 慶長2年9月9日1597年10月19日
別名 通称:少輔五郎[1]
官位 左馬助[1]
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 桓武平氏国香流熊谷氏
父母 父:熊谷信直、母:不詳
養父:熊谷直続(叔父)[1]
兄弟 高直[1]、女(野間隆実正室)、
新庄局吉川元春正室)[1]直清[1]
女(天野元明室)[1]、女(山内隆通室)[1]
広真[1]、三須隆経[1]、女(香川広景正室)[1]就真[1]
正室:熊谷直続の娘
直顕、直之、宮庄春真、守良、直重
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熊谷 直清(くまがい なおきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。父は熊谷信直。父・信直の弟の熊谷直続の婿養子となった。

生涯

享禄3年(1530年)、安芸国国人熊谷氏の当主である熊谷信直の次男として生まれ、男子のいない叔父・直続の婿養子となった。

天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦い初陣とする。天文11年(1542年)、月山富田城の戦いの前哨戦である赤穴城の戦いにおいて養父の直続が討死したため、その家督を継いだ。

その後も毛利氏家臣として各地を転戦したが、慶長2年(1597年9月9日に病死した。

直清の3代後の熊谷正直は、岩国領主吉川家に仕え、その典医(主治医)となった。

脚注

注釈

出典

参考文献




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