熊谷就真
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/13 11:13 UTC 版)
|
|
---|---|
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天文19年(1550年) |
死没 | 寛永元年9月16日(1624年10月27日) |
改名 | 熊谷就真→熊谷玄要(号)[1] |
別名 | 通称:小四郎[1] |
官位 | 玄蕃允、玄蕃頭[1]、従五位下[1] |
主君 | 毛利元就→輝元→吉川広家 |
藩 | 周防岩国領 |
氏族 | 桓武平氏国香流熊谷氏[2] |
父母 | 父:熊谷信直[1] 母:伴大方(武田好清の娘)[1] |
兄弟 | 高直[1]、女(野間隆実正室)、新庄局(吉川元春正室)[1]、直清[1]、女(山内隆通室)[1]、女(天野元明室)[1]、広真[1]、三須隆経[1]、女(香川広景正室)[1]、就真 |
子 | 元辰、直興 |
熊谷 就真(くまがい なりざね、旧字体:熊谷 就眞)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。毛利氏、吉川氏家臣。安芸国の国人・熊谷信直の五男(末子)。
生涯
天文19年(1550年)、安芸国の国人・熊谷信直の五男(末子)として生まれる。毛利元就に仕え、永禄10年(1567年)8月2日に「就」の偏諱を与えられて「就真」と名乗った。
永禄12年(1569年)12月18日、就真の愁訴や就真の生母・伴大方の働きかけの結果、元就と輝元から所領を与えることを約束され、元亀元年(1570年)5月に野間隆実の旧領・周防国岩国において90貫の地を与えられた。
天正6年(1578年)1月21日に輝元から「玄蕃允」に任じられ、天正7年(1579年)には備中国の佐井田城の在番を命じられた。
慶長2年(1597年)から始まる慶長の役では、次男の直興と共に朝鮮に渡海し武功を挙げる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が周防・長門2ヶ国に減封され、吉川広家が岩国領主となると、熊谷氏が吉川氏の姻族であったことから[注釈 1]吉川広家の寄騎として付けられる。
慶長10年(1605年)の五郎太石事件で甥の熊谷元直らが粛清されたが、就真はそれに連座せず、同年12月14日に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、432番目に「熊谷玄要」と署名している[3]。
寛永元年(1624年)9月16日、周防国熊毛郡小周防[注釈 2]で死去。享年75。長男の元辰は「粟屋」の名字を名乗って別家を興しており、次男の直興が後を継いだ。
脚注
注釈
出典
参考資料
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-4 毛利家文書之四』東京帝国大学、1924年8月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。
OCLC 703821998。全国書誌番号:
73004060。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻76「熊谷勘左衛門」、巻127「熊谷彦右衛門」
- 熊谷就真のページへのリンク