粟屋元相とは? わかりやすく解説

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粟屋元相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/14 17:46 UTC 版)

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粟屋元相
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 弘治2年(1556年
死没 寛永7年5月14日1630年6月24日
官位 豊後守肥前守
主君 毛利輝元秀就就隆
長州藩周防下松藩
氏族 清和源氏義光流粟屋氏
父母 父:粟屋就方
兄弟 元相、五兵衛
蔵田豊後守の娘
木工允、隆方元智、就信、隆良

粟屋 元相(あわや もとすけ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の譜代家臣で、周防下松藩家老。父は粟屋就方

生涯

弘治2年(1556年)、毛利氏の譜代家臣である粟屋就方の長男として生まれる。

慶長8年(1603年)、前年に生まれた毛利就隆の傅役として付けられ、翌慶長9年(1604年)に御抱守側用人として就隆に付けられた奈古屋元忠福間元道、榎本元信と共に家老となった。

慶長17年(1612年)に弟の五兵衛が病死したため、同年11月2日に三男の元智に五兵衛の家督と長門国厚東郡吉部郷の内の200石の地を相続させる。

元和3年(1617年4月28日に就隆への領地の打渡が行われて下松藩(後の徳山藩)が成立した際には、萩藩の当職である井原元以から打渡坪付帳を受け取っている。同年7月9日には三男・元智が元相の307石の知行を相続することを毛利輝元秀就に認められた。

寛永7年(1630年5月14日に死去。享年75。嫡男の木工允に200石を分知していたが早くに病死しており、元相の下松藩での500石の知行は幼少の頃から就隆に仕えていた次男の隆方が相続した。

脚注

参考文献




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