斎藤高利とは? わかりやすく解説

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斎藤高利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/27 15:42 UTC 版)

 
斎藤 高利
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 通称:次郎
官位 加賀守受領名
主君 大内義興義隆義長毛利隆元
左衛門尉?
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斎藤 高利(さいとう たかとし)は、戦国時代の武将。大内氏毛利氏の家臣。通称は次郎。後に加賀守受領名を名乗った。

生涯

安芸国への出陣

出自や生年は不明だが、大内義興に仕える。

大永3年(1523年4月11日武田光和らに支援された友田興藤が安芸国佐西郡桜尾城を奪取し、厳島神主を自称して大内義興に叛旗を翻した上に己斐城石道本城[注釈 1]も攻略した[1]。さらに、同年6月には出雲国尼子経久が安芸国に侵入し、平賀氏毛利氏吉川氏ら安芸国の諸勢力を従えて大内氏の東西条領の主要拠点である鏡山城を陥落させた[2]

このような動きによって安芸国における大内氏の勢力は大きく後退したため、大内義興は陶興房や弘中興武らを安芸国に派遣し[1]、同年8月1日に弘中武長を指揮官とする大内水軍が周防国大島郡遠崎[注釈 2]を出津した[3][4]。この時、高利は弘中武長を補佐する10人の一所衆の内の1人として従軍している[3][4]。なお、この時の弘中武長の一所衆は、高利の他に沓屋勝範、沓屋通種、小野山富縄、吉井蔵人が確認できる[5][6][7]。同年8月18日に弘中武長が率いる大内水軍が厳島に押し寄せ、友田方の守備兵を退却させて同島を占領した[1][7]

同年11月1日、弘中武長が率いる大内水軍[注釈 3]は、厳島から出撃して桜尾城後方の友田方拠点であった五日市を襲撃し、高利は放火を行った[3][4]。しかし、友田方の反撃により高利の中間1人が左足に矢傷を受けている[3][4]。さらに船着場において野間刑部大輔、能美弾正忠、野村民部丞、そのほか主だった者が20人余り討死して、大内方は退却した[8]

桜尾城の戦い

大永4年(1524年5月12日、大内氏は安芸国佐西郡の大野城において友田興藤と武田光和の連合軍を破る[9]。この勝利に勢いを得た大内氏では、大内義興義隆父子が大軍を率いて安芸国に出陣。陶興房は大将として岩戸山に陣をおき、さらに弘中武長指揮下の大内水軍が海上を封鎖して桜尾城を完全に包囲した[10]

高利も弘中武長の指揮下で桜尾城攻めに加わっており、7月3日には左足の腨(ふくらはぎ)に矢傷を負っている[3][4]

同年7月下旬から大内軍の攻撃が本格化し、7月24日には陶興房の部隊が「桜尾ノ二重」まで攻め込み、大内方は攻城兵器の車櫓まで投入したが、城側の守備は堅固で攻め落とすまでは至らなかった[11][12]。高利は8月23日の桜尾城攻撃において右肩に矢傷を負っている[3][4]

桜尾城を攻めあぐねて潮時と判断した大内軍は吉見頼興を降伏勧告の使者として城中に送り、10月10日に友田興藤との講和が成立した[13][14]が、弘中武長の指揮下の水軍が帰国した9月14日には友田興藤との和議に目途がついていたと考えられる[15]

高利と共に弘中武長の一所衆として出陣していた沓屋勝範は、大永5年(1525年3月23日に弘中武長に宛てて大永3年(1523年)8月1日の出津から大永4年(1524年)9月14日に帰国するまでの軍忠状を提出している[5][6]が、大永7年(1527年2月10日には高利も大永3年(1523年)8月1日の出津以降の負傷について記した軍忠状を弘中武長に送っている[3][4]

大内氏滅亡後

毛利氏による防長経略によって大内氏が滅亡した後は毛利氏に仕えており、弘治3年(1557年10月9日毛利隆元から長門国美祢郡赤郷内の15石と嘉万別府内の7石とで合計22石の知行地を安堵された[16][17][18]

その後の高利の動向や没年は不明であるが、天正期には高利の子とみられる斎藤左衛門尉が活動している[注釈 4]

脚注

注釈

  1. ^ 石道本城は現在の広島県広島市佐伯区五日市町石内にあった城塞。有井城に比定される。
  2. ^ 現在の山口県柳井市遠崎
  3. ^ 棚守房顕が記した「棚守房顕覚書」では、五日市で討死した野村民部丞を「弘中越後守ガ一人」としているので、武長も自身の郎党を率いて五日市攻撃を指揮していたと考えられる。
  4. ^ 閥閲録』巻160「萩町人」にの唐樋町の町人であった斎藤八郎右衛門が提出した7通の書状類が収録されているが、その内訳として高利の軍忠状や宛行状と共に、斎藤左衛門尉・才寿丸父子に宛てられた書状が収められていることから、斎藤左衛門尉・才寿丸父子は高利の子孫にあたると思われる。

出典

  1. ^ a b c 藤井崇 2014, p. 140.
  2. ^ 藤井崇 2014, p. 144.
  3. ^ a b c d e f g 『閥閲録』巻160「萩町人 斎藤八郎右衛門」第7号、大永7年(1527年)2月10日付け、弘中越後守(武長)殿宛て、斎藤次郎高利軍忠状。
  4. ^ a b c d e f g 萩藩閥閲録 第4巻 1971, p. 301.
  5. ^ a b 『閥閲録』巻137「沓屋勝八」第8号、大永5年(1525年)3月23日付け、弘中越後守(武長)殿宛て、沓屋源太郎勝範軍忠状。
  6. ^ a b 萩藩閥閲録 第3巻 1970, p. 875.
  7. ^ a b 福田直記 1975, p. 36.
  8. ^ 福田直記 1975, p. 37.
  9. ^ 福田直記 1975, p. 38.
  10. ^ 廿日市町史 通史編(上) 1988, p. 386.
  11. ^ 藤井崇 2014, p. 145.
  12. ^ 廿日市町史 通史編(上) 1988, pp. 387–388.
  13. ^ 藤井崇 2014, p. 146.
  14. ^ 廿日市町史 通史編(上) 1988, p. 388.
  15. ^ 松岡久人 2011, p. 312.
  16. ^ 『閥閲録』巻160「萩町人 斎藤八郎右衛門」第4号、弘治3年(1557年)10月9日付け、毛利隆元安堵状。
  17. ^ 萩藩閥閲録 第4巻 1971, p. 300.
  18. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 260.

参考文献




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