安芸国への出陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/12 14:49 UTC 版)
大永3年(1523年)4月11日、武田光和らに支援された友田興藤が厳島神主を自称し、大内氏に叛旗を翻す。興藤は佐西郡桜尾城に入城し、己斐城、石道本城も攻略した。さらに6月、出雲国の尼子経久が安芸国に侵入し、平賀氏、毛利氏、吉川氏ら安芸国諸勢力を従えて大内氏の東西条領の主要拠点・鏡山城を陥落させた。これにより、安芸国における大内氏の勢力は大きく後退した。 同年8月1日、弘中武長を指揮官とする大内水軍が周防国大島郡遠崎(現在の山口県柳井市遠崎)を出津。斎藤高利は武長を補佐する一所衆10名の一人として従軍した。なお武長の一所衆は、他に沓屋勝範、沓屋通種、小野山富縄、吉井蔵人が確認できる。18日、大内水軍は厳島に押し寄せ、友田方の守備兵を退却させて同島を占領した。 11月1日、弘中武長率いる大内水軍は、厳島から出撃して桜尾城後方の友田方拠点・五日市を襲撃し、斎藤高利は放火を行った。しかし友田方の反撃に遭い、高利の中間一人が左足に矢傷を受けている。さらに船着場において野間刑部大輔、能美弾正忠、野村民部丞、そのほか主だった者が二十人余り討死して、大内方は退却した。
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