安芸国での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/10 14:49 UTC 版)
隆包は、その功績から岩国だけでなく安芸の分郡(東西条)の代官にも任じられ、享禄2年(1529年)には毛利元就らと共に松尾城(安芸高田市)などを落とす。その後、安芸国で大内氏と尼子氏の勢力争いが激しくなると、尼子方に属する頭崎城(東広島市)の攻略に劣勢を強いられたことから、天文7年(1538年)頃に東西条の代官を杉隆宣(杉氏一族、隆相の父)に代えられてしまうが、天文10年(1541年)の吉田郡山城の戦い後に大内義隆が安芸守護に任じられると、隆包も安芸守護代を命じられた(西条守護と呼ばれることもあった)。天文12年(1543年)に槌山城の城主となり、安芸における大内氏勢力の要として活躍した。さらには、備後へ向けた経略も担当している。 天文11年(1542年)には、大内家の月山富田城遠征に従軍するが、城を落とすことができずに大内軍は敗走。動揺する安芸・備後の国人たちが尼子方に寝返るのを防ぐことに努め、翌12年(1543年)から数年にわたって行われた神辺城(尼子方の山名理興の居城)の攻略(神辺合戦)を、毛利軍などと共に行っている。天文17年(1548年)7月には、義隆の命を受けて神辺城周辺地域で大規模な稲薙(青田刈り)を行っている。 なお、元就とは公私共に親交を深めており、大内軍の月山富田城遠征の際には、意見を共にして義隆に献策するほどの仲であった。また、元就の2人の息子である毛利隆元(山口に人質として3年間滞在した間に親交を深めた)や吉川元春とも親しい間柄であったという。隆包は、同じく大内家臣の江良房栄と共に、元就の力量をよく知っていたと考えられる。
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