桜尾城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/12 14:49 UTC 版)
翌大永4年(1524年)5月12日、大内氏は佐西郡大野城において友田興藤・武田光和の連合軍を破る。この勝利に勢いを得た大内方では、大内義興・義隆父子が大軍を率いて安芸国に出陣。陶興房は大将として岩戸山に陣をおき、さらに弘中武長指揮下の大内水軍が海上を封鎖して桜尾城を完全に包囲した。 斎藤高利も武長指揮下で桜尾城攻めに加わった。7月3日、高利自身が左足の「腨」(ふくらはぎ)に矢傷を負っている。7月下旬から大内方の攻撃が本格化し、7月24日には陶興房の部隊が「桜尾ノ二重」まで攻め込みながら、城の友田方に撃退された。大内方は攻城兵器「車ヤクラ」まで投入したが、城側の守備は堅固だった。高利は8月23日にも、同城で右肩に矢傷を負った。 攻めあぐねた大内方は、吉見頼興を使者として城中に送り、10月10日に友田興藤との講和が成立した。高利とともに弘中武長の一所衆として出陣した沓屋勝範は、後に大永3年8月1日から大永4年9月14日帰国に至るまでの軍忠状を武長に提出している。武長指揮下の水軍が帰国した9月14日には、興藤との和議に目途がついていたと考えられる。
※この「桜尾城の戦い」の解説は、「斎藤高利」の解説の一部です。
「桜尾城の戦い」を含む「斎藤高利」の記事については、「斎藤高利」の概要を参照ください。
桜尾城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/14 17:00 UTC 版)
天文10年(1541年)1月12日、厳島神主家の友田興藤が大内氏に叛旗を翻し、厳島を占拠した。これに対し大内氏は、1月15日に厳島を奪回し、3月18日には大内義隆が周防国玖珂郡岩国から安芸国佐西郡門山に進んで、興藤の籠城する廿日市の桜尾城に迫った。 3月19日、正朝の兄・内藤隆時指揮下の部隊 が藤懸尾に登り、桜尾城の様子をうかがったが、この部隊に正朝も加わっていた。大内軍は以前にも藤懸尾に陣を構えていたが、3月9日に友田軍によって切り崩されていた。大内軍の動きに対し、桜尾城側からは桑原与四郎らが出撃して合戦となった。大内軍部隊は打ち破られ、正朝をはじめとして熊野藤右衛門尉や宮川大蔵太輔、そのほか主だった者10人余りが討ち死にした。 その後、3月23日に大内義隆は七尾に陣を進めて桜尾城への攻撃を開始し、4月5日に友田興藤が切腹して桜尾城は開城した。
※この「桜尾城の戦い」の解説は、「内藤正朝」の解説の一部です。
「桜尾城の戦い」を含む「内藤正朝」の記事については、「内藤正朝」の概要を参照ください。
- 桜尾城の戦いのページへのリンク