桜尾城落城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 10:01 UTC 版)
天文10年(1541年)1月12日、広就の兄興藤は大内氏に叛旗を翻し、村上三氏(能島・来島・因島)の水軍を呼び寄せて厳島を占拠した。広就もこれに同調したとみられる。しかし1月15日、村上水軍は黒川隆尚率いる大内水軍に厳島神社鳥居沖の海戦で敗れ、厳島は奪回されてしまう。 広就は興藤とともに、桜尾城に籠城した。陸路から迫る大内軍に対し、3月9日の藤懸尾での合戦で桑原与四郎らが活躍し、広就は彼の戦功を賞している。19日にも藤懸尾で合戦があり、大内氏重臣・内藤興盛の次男、正朝を討ち取るなど、大内軍に少なくない損害を与えた。 それでも3月23日、大内義隆率いる大内軍本隊が七尾に陣を移し、桜尾城は包囲される。4月5日夜半、神領衆の羽仁氏、野坂氏、熊野氏らが桜尾城を退去。興藤はただ一人城に火をかけて切腹した。
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