財満忠久とは? わかりやすく解説

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財満忠久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/18 00:08 UTC 版)

 
財満忠久
時代 戦国時代
死没 永禄12年5月19日(1569年6月3日
改名 赤法師丸(幼名)→ 財満忠久
別名 新右衛門、越前守
墓所 山口県宇部市小野平原(財満苑)
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 財満氏
父母 父:財満隆久 母:
口羽通良の娘
就久、忠貞
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財満 忠久(ざいま ただひさ)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。財満氏の当主である財満隆久の嫡子。口羽通良の娘である妻との間に就久と忠貞を儲ける。越前守。幼名は赤法師丸。通称は新右衛門。

生涯

父・財満隆久は大内義隆の家臣として仕えていたが、天文20年9月に起きた陶晴賢による謀反により大内義隆が自刃すると、陶軍に対抗し安芸槌山城において籠城した。陶晴賢の命に応じた毛利氏に攻撃された槌山城は落城し、隆久は討死した。

赤法師丸(のちの忠久)は家人の津室与三右衛門によって救い出され、その後成長した赤法師丸は新右衛門忠久と名乗り、毛利元就に召しかかえられ、周防国厚東郡四ケ小野1,600石を与えられた。永禄9年(1566年)4月21日には毛利輝元より「越前守」の受領名を賜わった[1]

永禄11年(1568年)1月、城主・立花鑑載が大友氏に叛旗を翻したことに乗じて、毛利元就は立花鑑載に援軍を送り込んだ。しかし同年4月、大友方は立花城を奪還すべく攻撃を開始、3ヶ月間の攻城戦の末、立花城は陥落し立花鑑載は自害した。

翌永禄12年(1569年)4月、吉川元春小早川隆景率いる毛利軍は立花城を再び陥落させ奪還した。5月、大友軍は再奪還を目指し立花山城に迫り、多々良川付近で毛利、大友両軍の間で激戦が繰り広げられた(多々良浜の戦い)。 5月18日には大友方の戸次鑑連勢が小早川隆景勢を破り、毛利方は立花山城に撤退を余儀なくされる。この戦いの中、永禄12年5月19日、財満忠久は立花城において討死した(立花城の戦い)。

脚注

出典

参考文献





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