赤川元忠とは? わかりやすく解説

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赤川元忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/22 13:22 UTC 版)

 
赤川 元忠
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄6年4月10日[1]1563年5月2日
別名 通称:又六[2]
主君 毛利弘元興元幸松丸元就隆元
氏族 桓武平氏良文流小早川氏庶流赤川氏[3]
父母 父:赤川吉忠[2]
兄弟 元忠、江田隆連[2]、忠近[2]
元吉[1]、吉次[4]
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赤川 元忠(あかがわ もとただ)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。父は赤川吉忠[2]。従兄弟には毛利氏重臣の赤川就秀赤川元保、赤川元久らがいる[5]

生涯

毛利氏の譜代家臣である赤川吉忠の長男として生まれる[1]

明応3年(1494年7月13日に父・吉忠が死去し、その後を継ぐ[1]

天文9年(1540年10月11日吉田郡山城の戦いの局地戦の一つである青山の戦いで尼子軍と戦って武功を挙げ、翌10月12日毛利元就から感状を与えられた[6]

永禄5年(1562年10月13日門司城の戦い警固衆(水軍)の一員として従軍した嫡男の赤川元吉豊前国企救郡内裏[注釈 1]における大友軍との合戦において冷泉元豊と共に戦死した[1][7]

同年10月27日毛利隆元は元忠に見舞いの書状を送り、嫡男・元吉の戦死を伝えると共に銅銭500疋を与えている[7]

嫡男・元吉の戦死に伴い、元吉の子である赤川元継が後を継いだが、元吉の戦死から半年後の永禄6年(1563年4月10日に元忠も死去した[1]

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f 『閥閲録』巻50「赤川半兵衛」家譜。
  2. ^ a b c d e 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 196.
  3. ^ 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 195.
  4. ^ 萩藩諸家系譜 1983, p. 327.
  5. ^ 近世防長諸家系図綜覧 1966, pp. 196–197.
  6. ^ 『閥閲録』巻50「赤川半兵衛」第1号、天文9年(1540年)10月12日付け、赤川又六(元忠)殿宛て、(毛利)元就感状。
  7. ^ a b 『閥閲録』巻50「赤川半兵衛」第4号、永禄5年(1562年)比定10月27日付け、赤川因幡守(元忠)殿宛て、(毛利)隆元書状。

参考文献




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