粟屋孝春とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 粟屋孝春の意味・解説 

粟屋孝春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/05 13:37 UTC 版)

 
粟屋孝春
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄12年(1569年[1]
または天正元年(1573年[2]
死没 慶長15年5月4日1610年6月24日
別名 通称:五郎左衛門→次郎右衛門尉
戒名 珪峯不白
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 藤原北家道兼流八田氏族宍戸氏粟屋氏
父母 父:宍戸元秀、母:内藤興盛の娘
養父:粟屋孝重
兄弟 宍戸元続、女(三沢為虎室)、内藤元盛
孝春宍戸元真宍戸景好宍戸元可
古満姫(小早川秀秋室、後に興正寺准尊室)
粟屋孝重の娘
女(粟屋元豊室)
養子:元豊(兄・内藤元盛の次男)
テンプレートを表示

粟屋 孝春(あわや たかはる)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏家臣で長州藩士。父は宍戸元秀で、粟屋孝重の婿養子として家督を継ぐ。母は内藤興盛の娘。

生涯

永禄12年(1569年[1]、または、天正元年(1573年[2]宍戸元秀の三男として生まれる[1]

毛利氏家臣・粟屋孝重(彦兵衛尉)が嫡男のいないまま病となり、家が断絶しそうになったため、旧縁があった孝春が粟屋孝重の娘と婚姻し、婿養子として家督を継いだ[1]

慶長10年(1605年12月14日、同年の五郎太石事件の後に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、17番目に「粟屋次郎右衛門尉」と署名している[3]

慶長15年(1610年5月4日名古屋城築城の手伝普請のための出張中に死去[1]。享年38、または、42。婿養子の粟屋元豊が後を継いだ[4]

系譜

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 61.
  2. ^ a b 『閥閲録』巻91「粟屋吉兵衛」家譜。
  3. ^ 『毛利家文書』第1284号、慶長10年(1605年)12月14日付け、毛利氏家臣他820名連署起請文。
  4. ^ a b 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 190.
  5. ^ a b 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 60.
  6. ^ 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 189.

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  粟屋孝春のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「粟屋孝春」の関連用語

粟屋孝春のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



粟屋孝春のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの粟屋孝春 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS