赤川房信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/14 09:02 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 通称:又五郎[1]→十郎左衛門尉[1] |
官位 | 因幡守(受領名) |
主君 | 毛利弘元→興元 |
氏族 | 桓武平氏良文流小早川氏庶流赤川氏 |
父母 | 父:赤川親定[1]、母:志道氏の娘[1] |
兄弟 | 房信、親光[1]、女(吉原藤五郎室)[1]、女[1]、吉忠[1]、女(和智某室)[1]、隆久[1] |
妻 | 正室:坂広秋の娘[1] |
子 | 房景[1]、女[1]、元光[1]、就秀[1]、元保[2]、女(桂某室)[2]、元久[2]、長沼元忠[2] |
赤川 房信(あかがわ ふさのぶ)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。赤川親定の嫡男[1]。子に毛利氏の重臣である赤川就秀、赤川元保、赤川元久らがいる[3]。
生涯
安芸国高田郡吉田[注釈 1]を本拠地とする国人・毛利氏の譜代家臣である赤川親定の嫡男として生まれる[1]。
明応10年(1501年)4月4日、「自分之役」を末代まで与えるが、京や筑紫またはこちらも一般用所であるため、本領役を申し付ける時はそれと同様とする旨の証文を毛利弘元から与えられる[4]。
永正4年(1507年)1月27日、安芸国高田郡の高田原[注釈 2]における合戦において槍を用いて武功を挙げ、2月2日に毛利興元から感状を与えられる[5]。
没年は不明[1]。長男の房景は早世し、次男の元光は永正13年(1516年)に戦死したため、三男の就秀が家督を相続した[3]。
系譜
脚注
注釈
出典
参考文献
- 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。
OCLC 703821998。全国書誌番号:
73004060。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ。
NCID BN01905560。全国書誌番号:
84027305。
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- 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻32「赤川勘解由」
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