河窪信俊とは? わかりやすく解説

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河窪信俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/29 03:56 UTC 版)

 
河窪信俊
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄7年(1564年
死没 寛永16年2月14日1639年3月18日
別名 新十郎、与左衛門(通称
戒名 道二
墓所 輪禅寺(埼玉県小川町
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家康秀忠家光
氏族 武田氏族河窪氏
父母 河窪信実、染土河内守の娘
兄弟 信俊小笠原長巨
正親町三条公仲の娘
信雄、信世[1]、信房[2]、信宅[3]、信次[4]、信通[5]、信本[6]、女子2人
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河窪 信俊(かわくぼ のぶとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将

生涯

河窪氏は甲斐国戦国大名武田氏の一族で、父信実武田信玄の弟にあたる。信実は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで戦死した。

天正10年(1582年)3月、織田信長徳川家康連合軍の武田征伐での武田氏滅亡、6月の本能寺の変による信長没後に甲斐国には家康が入った。その時に家康に信実の遺児として召され、河窪の地を与えられてその配下となった。天正壬午の乱では柴田康忠の麾下に加わり、佐久郡前山での戦いや蘆田小屋の戦いで戦功。天正11年(1583年小諸城岩尾城の戦いでも一番槍の活躍をし、甲斐国内に新領を与えられる。

天正12年(1584年小牧・長久手の戦いでは自ら3の首級をあげるなど活躍。天正18年(1590年小田原征伐では平岩親吉の麾下に入って岩槻城攻めに従い、敵将山口平内を討つなど貢献した。戦後の関東移封では武蔵国比企郡加美郡に移った。天正19年(1591年九戸政実の乱では岩出山城まで出張。慶長3年(1600年関ヶ原の戦い、慶長19年(1614年大坂冬の陣、翌夏の陣にも従軍した。その後は伏見城大番頭、1600石の旗本となった。寛永3年(1626年)致仕。

家督は長男信雄が継承。次男以下も旗本、紀州家水戸家に仕えた。なお嫡孫信貞の代に武田氏に復姓している。

脚注

  1. ^ 旗本4百石
  2. ^ 紀伊徳川家家臣
  3. ^ 水戸徳川家家臣
  4. ^ 旗本3百俵
  5. ^ 甲府徳川家、徳川綱重家臣
  6. ^ 前橋徳川家、徳川綱吉家臣

参考文献




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