追討軍との開戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 23:34 UTC 版)
元治元年6月、幕府は筑波勢追討令を出して常陸国・下野国の諸藩に出兵を命じ、直属の幕府陸軍なども動員した。7月7日に諸藩連合軍と筑波勢との間で戦闘が始まった。筑波勢は機先を制して下妻近くの多宝院で夜襲に成功し、士気の低い諸藩軍は敗走する。水戸へ逃げ帰った諸生党は、筑波勢に加わっている者の一族の屋敷に放火し、家人を投獄・銃殺するなどの報復を行った。8月半ばまでに市川らは水戸における実権を掌握し、江戸にいる藩主慶篤の意向と関わりなく藩政を動かすことが可能となった。 諸生党の報復に対し筑波勢の内部では動揺が起こり、小四郎ら筑波勢本隊は攘夷の実行を優先する他藩出身者らと別れて水戸に向かった。小四郎らは水戸城下で諸生党と交戦するが敗退し、那珂湊(ひたちなか市)の近くまで退却する。小四郎ら本隊と別れて江戸へ向かって進撃した一派も鹿島付近において幕府軍に敗北した。 幕府軍による筑波勢追討が開始されると、激派の恐喝・暴行に苦しめられていた領民たちが次々と天狗党への反撃を開始する。7月10日には茨城郡友部(笠間市友部)、7月13日には結城郡中妻(常総市中妻)、7月21日には那珂郡諸沢(常陸大宮市諸沢)と、各地で恐喝に来た天狗党員が相次いで村民の反撃によって殺された。こうした散発的な天狗党への反撃は次第に大きな地域連合へと変化し、7月25日には茨城郡鯉淵村(水戸市鯉淵)など近隣四十数か村が幕府軍に呼応して挙兵した。また7月26日に諸生党が激派追討のため水戸城周辺の村々へ足軽の動員をかけると領民が続々と参加を願い出た。両者は合流して7月29日に茨城郡下土師(茨城町下土師)で田中愿蔵の部隊を攻撃し、これを撃破した。この動きに並行する形で、各地で激派およびこれに同調していた郷士・村役人・豪農等への打ち壊しが行われた。
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