響野原の戦い
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相良氏を降した島津氏は、さらに肥後中央部への進出を図り、その途中に立ちはだかる御船の甲斐宗運を破るため、相良義陽に先陣を命じた。阿蘇攻めの先陣を命じられた義陽は、同年十二月、八百の勢を率いて八代城を出発した。義陽は阿蘇領との境にある姿婆神峠を越え、山崎村に侵入した。そして村内の響野原に本陣を置き、一隊は阿蘇氏の出城甲佐城と堅志田城に向かい、両城を攻め落とした。これに対して宗運は、物見によって義陽が響野原に陣をとったことを聞くと「それは義陽の陣とは思えぬ、かれならば姿婆神から鬼沙川を渡らず糸石あたりに陣を布くはずだ」と言って、さらに物見に確かめさせたところ、まさしく相良義陽であった。宗運は「みずから死地を選んだとしか思えぬ」と言って、義陽の心中を思いやったという。十二月二日の未明、宗運は鉄砲隊を先手として本隊を率い、相良勢に気付かれぬよう、密かに迂回して間道を抜け粛々と響野原へ兵を進めた。決戦の日は小雨が降り、霧が立ちこめていたという。宗運は兵を二手に分けると、相良勢を挟撃するかたちで襲いかかった。相良勢は霧のなかから突如沸き起こった喚声に仰天した。響野原はたちまち銃声が響きわたり、怒号と喚声のなかで、白刃が斬り交う修羅場と化した。戦いは宗運の奇襲戦法に応戦態勢が遅れた相良勢が敗れ、ついには大将相良義陽以下、三百余の将兵が戦死、相良勢は総崩れとなって八代方面へ潰走した。 義陽の首を見た宗運は、心ならずも島津の命に従わざるを得なかった義陽の立場に同情し、死をもって盟友に詫びていった義陽を哀悼してやまなかったという。義陽の死後、重臣の深水宗方、犬童休矣らが島津氏と交渉して嫡男忠房を補佐し、次男の長毎は出水において島津氏の人質となった。天正十三年、忠房が死去したため、長毎が家督を継ぎ、相良氏は島津氏の指揮下にあって、その九州統一戦に活躍した。
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