響野原の戦いとは? わかりやすく解説

響野原の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 14:33 UTC 版)

相良義陽」の記事における「響野原の戦い」の解説

相良氏降した島津氏は、さらに肥後中央部への進出図り、その途中立ちはだかる御船甲斐宗運を破るため、相良義陽先陣命じた阿蘇攻め先陣命じられ義陽は、同年十二月八百の勢を率いて八代城出発した義陽阿蘇領との境にある姿婆神峠を越え山崎村侵入した。そして村内の響野原本陣を置き、一隊阿蘇氏出城甲佐城と堅志田城向かい両城攻め落とした。これに対して宗運は、物見によって義陽が響野原に陣をとったことを聞くと「それは義陽の陣とは思えぬ、かれならば姿婆神から鬼沙川を渡らず糸石あたりに陣を布くはずだ」と言って、さらに物見確かめさせたところ、まさしく相良義陽であった。宗運は「みずから死地選んだとしか思えぬと言って義陽心中思いやったという。十二月二日未明、宗運は鉄砲隊先手として本隊率い相良勢に気付かれぬよう、密かに迂回して間道抜け粛々と野原へ兵を進めた決戦の日は小雨降りが立ちこめていたという。宗運は兵を二手分けると、相良勢を挟撃するかたちで襲いかかった相良勢はのなかから突如沸き起こった喚声仰天した。響野原はたちまち銃声響きわたり、怒号喚声のなかで、白刃が斬り交う修羅場化した戦いは宗運の奇襲戦法応戦態勢遅れた相良勢が敗れついには大将相良義陽以下、三百余の将兵戦死相良勢は総崩れとなって八代方面潰走した。 義陽の首を見た宗運は、心ならずも島津の命に従わざるを得なかった義陽立場同情し、死をもって盟友詫びていった義陽哀悼してやまなかったという。義陽死後重臣深水宗方犬童休矣らが島津氏交渉して嫡男忠房を補佐し次男の長毎は出水において島津氏人質となった天正十三年、忠房が死去したため、長毎が家督継ぎ相良氏島津氏指揮にあって、その九州統一戦に活躍した

※この「響野原の戦い」の解説は、「相良義陽」の解説の一部です。
「響野原の戦い」を含む「相良義陽」の記事については、「相良義陽」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「響野原の戦い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「響野原の戦い」の関連用語

響野原の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



響野原の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの相良義陽 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS