響野原の戦い
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| 響野原の戦い | |
|---|---|
| 戦争:戦国時代 (日本) | |
| 年月日:天正9年(1581年)12月2日 | |
| 場所:肥後国下益城郡響野(熊本県宇城市) | |
| 結果:甲斐軍の勝利 相良義陽の討死 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 戦力 | |
| 800 | 500 |
| 損害 | |
| 300 | 軽微 |
響野原の戦い(ひびきのはらのたたかい)は戦国時代の天正9年(1581年12月2日)に肥後国で起こった戦いである。
双方の出陣
相良氏を軍門に降した島津氏は、さらに肥後中央部への進出を図り、その途中に立ち塞がる御船城の甲斐宗運を破るため、相良義陽に先陣を命じた。阿蘇攻めの先陣を命じられた義陽は同年12月1日の早暁、兵800を率いて古麓城を出陣し、その途次の白木妙見社で戦勝祈願を行う。義陽は八代から阿蘇領との境にある
戦いの経過
この日は早朝からの濃霧で視界が遮られており、宗運は配下の兵に茂に入って伏せるよう命じる。 相良勢は甲斐氏の諸城を落とし170名余を討ち取ったことから戦勝気分に浸っていたが、密かに周囲の藪に隠れて布陣をした甲斐勢が、一斉に攻めかかった。この奇襲により相良勢は総崩れとなり、義陽は落ち延びることを勧める家臣の進言を退けて床几に座し、甲斐家臣・緒方喜蔵によって討ち取られた。 大将を失った相良勢は、300余人の戦死者を出して敗走し、小田・浜田・小谷らと犬童長門以下十五名の近衆も奮戦の末討死した。
戦後
この合戦ののち、義陽の首実検に臨んだ宗運は涙を流して合掌し、「約定を破ったからには儚く討たれてしまったことも是非もなし。しかし相良が堅固であったからこそ阿蘇も無異で我らも永らえることができていた。義陽公亡き今は頼るべき人もなく、我らも3年ほどのうちに滅びるであろう」と語ったという。 重臣の深水宗方、犬童休矣らが島津氏と交渉して嫡男の忠房を補佐し、次男の頼房は島津氏の人質となった。 この二年後、(1583年)宗運は没する。享年75。病死とも毒殺とも言われる。 戦いから4年後の天正13年(1585年)に忠房が死去したため、頼房が相良家の家督を継いだ。相良氏は島津氏の指揮下で九州統一戦に活躍した。 天正15年(1587年)に佐々成政の配下として所領を安堵されるが同年の肥後国人一揆に加担したことにより、甲斐氏は滅亡した。
脚注
出典
響野原の戦い
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相良氏を降した島津氏は、さらに肥後中央部への進出を図り、その途中に立ちはだかる御船の甲斐宗運を破るため、相良義陽に先陣を命じた。阿蘇攻めの先陣を命じられた義陽は、同年十二月、八百の勢を率いて八代城を出発した。義陽は阿蘇領との境にある姿婆神峠を越え、山崎村に侵入した。そして村内の響野原に本陣を置き、一隊は阿蘇氏の出城甲佐城と堅志田城に向かい、両城を攻め落とした。これに対して宗運は、物見によって義陽が響野原に陣をとったことを聞くと「それは義陽の陣とは思えぬ、かれならば姿婆神から鬼沙川を渡らず糸石あたりに陣を布くはずだ」と言って、さらに物見に確かめさせたところ、まさしく相良義陽であった。宗運は「みずから死地を選んだとしか思えぬ」と言って、義陽の心中を思いやったという。十二月二日の未明、宗運は鉄砲隊を先手として本隊を率い、相良勢に気付かれぬよう、密かに迂回して間道を抜け粛々と響野原へ兵を進めた。決戦の日は小雨が降り、霧が立ちこめていたという。宗運は兵を二手に分けると、相良勢を挟撃するかたちで襲いかかった。相良勢は霧のなかから突如沸き起こった喚声に仰天した。響野原はたちまち銃声が響きわたり、怒号と喚声のなかで、白刃が斬り交う修羅場と化した。戦いは宗運の奇襲戦法に応戦態勢が遅れた相良勢が敗れ、ついには大将相良義陽以下、三百余の将兵が戦死、相良勢は総崩れとなって八代方面へ潰走した。 義陽の首を見た宗運は、心ならずも島津の命に従わざるを得なかった義陽の立場に同情し、死をもって盟友に詫びていった義陽を哀悼してやまなかったという。義陽の死後、重臣の深水宗方、犬童休矣らが島津氏と交渉して嫡男忠房を補佐し、次男の長毎は出水において島津氏の人質となった。天正十三年、忠房が死去したため、長毎が家督を継ぎ、相良氏は島津氏の指揮下にあって、その九州統一戦に活躍した。
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