城郭とは? わかりやすく解説

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じょう‐かく〔ジヤウクワク〕【城郭/城×廓】

読み方:じょうかく

城の周囲設けた囲い城壁。「—を巡らす

城と外囲い

外敵を防ぐための防御施設。とりで。「天然の—」


城郭

読み方:ジョウカク(joukaku)

(1)城の周囲の柵・塁・堀。
(2)天守閣含めた全体


城郭

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城郭(じょうかく)とは、のこと。または、城の周囲に設けた囲いのこと。城壁とも言う[1]。城と曲輪の総称を指す場合もある。本来、城は内城、郭は外城を指した[要出典]。城郭で囲まれた都市を城壁都市という。




「城郭」の続きの解説一覧

城郭

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舌状台地」の記事における「城郭」の解説

舌状台地先端部に城郭を設け事例各地見られ平山城として言及される舌状台地先端部に城郭を構え場合台地面につながる部分には空堀設けるのが一般的であった例えば、青森県中泊町中里遺跡では、もともと古代集落があった場所に、空堀などが施され中世城館となった東京都調布市深大寺城は、野川沼地三方にもち、西側台地につながる部分空堀設けた連郭式縄張中世城郭であったまた、現在の千葉県市原市にあった椎津城は、台地側に3条空堀設けていた。

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鍋山城」の記事における「城郭」の解説

石垣櫓台虎口土塁、郭、堀が残る。大鍋山に本丸小鍋山に二の丸、下鍋山出丸築かれている。現在城跡管理鍋山城史跡保存会が行っている。

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貝吹山城」の記事における「城郭」の解説

貝吹山古墳全長約130m、最長部は標高44m、比高8m前方北西向けている前方後円墳である。この城は、南東熊野街道があり約500m地点位置する紀伊国の繋がる熊野街道押さえ、また約3km西には岸和田城があり、後詰とする最適な場所となる。貝吹山古墳後円部三段構成となっており、最上段が主郭考えられている。貝吹山古墳傾斜面の裾の近く断面V字をした溝が四カ所検出され、これが主郭部分を防備する横堀考えられている。横堀段築平坦地ではなく傾斜面作られているという点も注目されている前方部横堀土塁組み合わせ防御していた事が報告されており、後円部同様の普請であった考えられている。前方部は削平されており、陣城に伴う削平し曲輪として活用していたと考えられるが、築城以前阿弥陀堂建っていたとう伝承があり、築城前にもすでに削平されていた可能性がある。また主郭部分と前方部堀切分断されている。 後円部周囲には、土橋区切られた濠が廻っている。土橋と濠は古墳時代からの形状であった考えられるが、城郭の防御ラインとしても使用されていた。しかし、土橋部分防御施設土橋から主郭までの動線については現状では不明である。発掘調査部分的なトレンチ調査だけとなっており、城郭の全容明らかにするまでには至っていない。

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一宮城 (阿波国)」の記事における「城郭」の解説

一宮城本丸中心に東西800m南北500m範囲才蔵丸明神丸小倉丸などの曲輪配置されている他、倉庫跡、畑跡、貯水池跡や、尾根筋には堀切横堀竪堀小曲輪を配し強固な防御としている。蜂須賀家政時代思われる本丸部分石垣は、徳島には産出例が多い結晶片岩野面積みで、角石には立石用いるなど近世城郭初期時代思われる。これらの石垣は、徳島県下では、池田城と同規模で、徳島城に次ぐ大規模なものとなっている。1817年文化14年)に編纂された『一宮城古城跡書』によると、主要曲輪は6ヵ所、小規模なものを含めると13ヵ所の丸と呼ばれる曲輪があったと記載されている。

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助川海防城」の記事における「城郭」の解説

多賀郡助川大平山古城跡建てられた。本丸標高約110m、海岸までの直線距離約2kmであり海防指揮する好適であった軍奉行山国八郎設計監督に当たり、幕府進達した設計書記され建造物は、屋敷構、土蔵、穀長屋表門居宅入口門、柵門裏口)、武器庫2棟二階遠見番所居宅二階付物見、柵矢来。更に、義観養正館鉄砲教練場などを設けて城郭として整えた。なお、ほとんどが天狗党の乱失われてしまい、遺構として現存しているのは本丸表門礎石石のみである。現在、本丸跡城跡公園等、二の丸跡は日立市鳩が丘さくら福祉センター等、三の丸跡日立総合病院日立市立助川小学校になっている

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船上城」の記事における「城郭」の解説

当時船上城様子天理図書館所蔵している『慶長播磨国絵図』に「明石古城」として記載があり、また『小笠原忠真一代覚書によれば大坂の役までの遺構として、門、塀、殿主天守)がある。『ひょうごの城紀行』は船上城天守は「二層建物の上望楼取り付けた三層のものだったではないか」と推測している。 現在の船上城跡はほとんどが宅地農地になっており、高さ3m小さ台地にある本丸跡古城大明神の祠、船上城説明看板があるのみである。戦前はこの台地もかなり広かったようであるが開発により急速に削られている。近く船上西公園から本丸跡眺めることができる。 明石城築城の際には、建築部材船上城部材使用した明石城の巽船上城天守移築したものと伝える)と言われている。また明石市指定文化財織田家長屋門は、もと船上城侍屋敷長屋門であった伝えられる船上城地名推定遺構旧地名古城門田獅子丁田町屋敷推定遺構本丸跡思われる 城門跡と思われる 城の大手門跡と思われる 侍屋敷跡と思われる 旧地名寺田町山王神社宝蔵寺古波場推定遺構寺町跡と思われる 現在は林神社合祀されている キリスト教会転用された 水門、港跡と思われる

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神尾山城」の記事における「城郭」の解説

城郭は南北に約350メートル東西に約70メートルで、丹波では大形属する。山稜線の主軸根幹をなし、そこから派生した2つ支脈稜線曲輪配され下部曲輪で横に繋がっている。

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丸山城 (伊賀国)」の記事における「城郭」の解説

丸山城は、後世開墾等で改変受けた箇所若干あるものの、三重県でも非常に保存状態良い中世城郭である。丸山の最高所位置する天守台周辺本丸考えられここから派生する西、南、北の尾根丘陵斜面などの地形利用し大小平坦地設けた城郭となっている。本丸周辺防御がかなり意識され縄張りとなっているが、本丸周辺外では単調な縄張りとなっている。

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大和田城」の記事における「城郭」の解説

大和田城場所については、都市化進んで遺構はなく、現在特定できていない。ただ、『西成郡史』によると大字で「垣内呼ばれた地域であろう」と記載されている。大阪市解説でも城跡は「城垣内(しろかいと)」と呼ばれた地とされ、現在の大和田5丁目全域一部4丁目を含む地域である。城垣内北西地域には少し高い場所があり、移設前の石碑があった周辺では「城の町」と呼ばれており、この周辺が城の中心ではなかったかと考えられている。大和田の地は京都西国を結ぶ交通上の要衝であり、石山本願寺軍や毛利水軍備え軍事上の重要な箇所となっていた。 なお、大阪府大阪府行政地図情報システムによる埋蔵文化財包蔵地範囲表示では、大和田5丁目住吉神社大和田公園付近を「大和田城伝承地」として設定している。

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野崎城 (河内国)」の記事における「城郭」の解説

山頂本曲輪設け、その東側に10m以上の堀切配し本曲輪の西と北に出曲輪、更に西の山麓傾斜添い3段にわたる4つの曲輪を設けている。 西三段目曲輪 西出曲輪 北出曲輪 野崎城からの眺望

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安威城」の記事における「城郭」の解説

安威城の城郭は外郭内郭100メートル×70メートルからなる縄張り思われている。 安威城はかつて大手門があった場所より進入しここから城内中心部進入していく。この大手門両脇に、農業用水路確保されているが、これが外郭城外隔てる堀のような役割果たしていたのではないか指摘されているが詳細について不明である。 城内は完全に宅地化されており、城跡をしのばされるものは少ないが、北東150メートル土塁跡、また南側にも見受けられる北東土塁ほど保存状態よくないそれ以外南東円形城井戸と伝わるものがあり、現在も用水として使用されている。 茨木市立安威小学校外郭一部建ち、西限ではないか思われている。 「安威城跡」として周知の埋蔵文化財包蔵地になっている範囲では、大阪府茨木市により2002年平成14年以来数回発掘調査が行われているが、調査範囲では近世古墳時代集落遺跡遺物多量に検出されているものの、中世城郭に明確に関連する遺構遺物発見されていない

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南漢山城」の記事における「城郭」の解説

城郭は基本的に元城外城区分されるが、元城一つ繋がれ本城であり、外城として東側巖城と漢峰城、南側新南城があり、東西2つ高台構築されている。元城1624年仁祖2年)から1626年(同4年)の間に増改築当時ママ築城されて周囲7,545mになる。 元城内部は約67万余坪と測量されている。現在元城南側北側一部破損された状態である。

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山下城 (摂津国)」の記事における「城郭」の解説

山下城二山一城で城郭も2箇所存在している。城山の方が遺構多数残っている、面積大きい、という点から中心城山の方で、向山補完する存在思われる城山向山の間には城郭施設見受けられず、連絡路のみ見受けられるこのような城郭を築いた理由として、谷を挟んで両翼から防御できる、片方の城が落城しても、もう片方に敵が押し寄せるのは時間がかかり反撃できる、などが考えられる

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飯盛城 (肥前国)」の記事における「城郭」の解説

愛宕山南西山腹築かれ山城城跡は現在飯盛神社鎮座する境内からその裏手の山林一帯とされている。飯盛城のものと確定されている遺構2009年現在発見されていない

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野田城 (摂津国)」の記事における「城郭」の解説

野田城がどの程度の城郭であったのか現在も不明な点が多い。城跡都市化され築城当時とは大きく地形変化しているからである。ただ少な資料の中からおおまかな概要把握されている。この地域平安時代以前には「難波八十島」と呼ばれる島々点在していたが、淀川の堆積土砂によって段々と島が陸続きになり、平安時代より今日に至るまで大きく変化してきた。野田城当時は島のような場所に築城されていたと考えられている。 野田城は砦であったという指摘もあるが、『細川両家記』には、 野田福島に猶似て堀をほり、壁を付け上げさせ、河浅き所に乱逆茂木引き、当所籠らるるなり — 『細川両家記』 とあることから、浦上村宗時代には砦のような施設であったが、三好三人衆時代には「紛れもない城郭であろう」と『幻の野田城を探る』では記しており、近隣にある大坂城のような近世城郭ではないものの戦国時代の城であった思われている。 明治時代初めまでは、同地域に「野田村」が存在していた。この野田村は奥ノ町、東ノ町、城ノ内町、弓場町堤町、北ノ町の6町から成り立っていた。明治時代初期地図によると、この野田村周辺他の地域比べて若干高い場所にあり、地の利活かし築城されたのではないか思われている。また『幻の野田城を探る』によると、城郭は旧町名城ノ内町、奥ノ町にあたるのではないかとしており、現在の地名では、石碑1や極楽寺付近中心部野田恵美須神社春日神社が城郭の東側とされる福島区野田3丁目の野田診療所南東には馬洗池があったと言われており、この馬洗池が野田城と関係があるとなればこの辺りが城郭の西側になると思われている。

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梶谷城」の記事における「城郭」の解説

城山山頂部分を削って本丸作られ南側物見台北側二の丸置かれた。遺構としては櫓台井戸の跡、野面積み石垣等がある。山の西麓には「千人」と称される居館跡があり、石壁石塁・門等が残されている。

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豊島清元」の記事における「城郭」の解説

豊島清光館:隅田川岸辺に建つ清光寺豊島清光館跡と言われる平塚城現在の平塚神社城跡といわれている。清光その子の朝経の時の居城居城石神井城に移ると、支城となった石神井城現在の石神井公園一角にあり、三宝寺池石神井川挟まれ台地上に築かれた。三宝寺池のほとりに城址碑がある。

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上桜城」の記事における「城郭」の解説

この城は新城古城とよばる2か所の遺構からなっている。東側の遺構古城尾根上の突起築かれ徳島県下の中世城郭によく見られる占地に無理な築城されている。一方、西の遺構新城南方から北に向かっている尾根無理に築城されており、南と北を防御するように築かれており、古城弱点補完する防御のために後に新たに築城されたと考えられている。山麓には居館があったと思われるが、現在は跡形もなく馬場屋敷」という地名のみが残っている。

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郡山城 (大和国)」の記事における「城郭」の解説

城跡1881年明治14年)に旧郡山中学校校舎二ノ丸に、旧郡山園芸高校麒麟曲輪建設されるなど、大きく姿をかえた。長らく荒廃していた郡山城であったが、1960年昭和35年7月28日本丸毘沙門曲輪奈良県指定史跡となり、1983年昭和58年)に追手門が、翌1984年昭和59年追手隅櫓が、1987年昭和62年)には追手市民寄付などにより復元された。

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芥川山城」の記事における「城郭」の解説

芥川山城大きく3つのブロックか構成されている。

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千石堀城」の記事における「城郭」の解説

千石堀城は、2重の塹壕巡らし四周大小多数の池が散在し天然備えをしていた。東西32間、南北12間、東堀西堀南堀北堀それぞれ二重としていたと記されている(『根来戦記』)。現在遺構確認出来るのが三ノ丞山と呼ばれる一画だけだが、南側の丘稜とため池自然の地形利用した要害となっていたと見られている。 千石堀城主郭部分は、40×70メートル周囲には横掘を巡らし北側には本丸へ続く食い違い虎口設けている。横堀の更に外側には土塁帯曲輪巡らしている。主郭下の横堀には堀内部に低いながら仕切りがあり、防御分担が行われるようになっている横堀仕切り設ける城郭技術は、紀伊国高野山系城郭の一部認められ戦国時代後期から広く共有した築城技術となっている。

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二上山城 (大和国)」の記事における「城郭」の解説

二上山城主郭にある葛木坐二上神社拝殿 本丸西側にある空堀二上山雄岳雌岳の両峰からなりなっており、二上山城は北の雄岳山上にある。山頂東西170mの西高東低二段からなる長大曲輪で、二の丸呼ばれている場所に大津皇子の墓がある(但し、大津皇子の墓ではないとする説もある)。陵墓後世整備させたようであるが、二上山城時代にはこの周辺櫓台土塁があったと思われている。陵墓石垣補修され公園化されているので、城の面影少ないが登り道の斜面には三段帯曲輪東西走っている。本丸呼ばれる曲輪東側には葛木坐二上神社拝殿がある。本丸から更に西側向うと、帯曲輪空堀土塁続き六段曲輪がある。この部分公園化されていないので、曲輪の形が現在でも確認できる二上山雌岳側にも腰曲輪の城郭があったと言われているが、全体崩れがあり城郭部分明確に判断出来にくい状態になっている二上山城山続きの北1kmには岡氏の居城であった岡城、南に900mには山城があり二上山城両城抑えることが可能な位置にある。

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山形城」の記事における「城郭」の解説

山形城は、本丸二の丸三の丸が、同心円状配置され輪郭式平城である。二の丸には5つ三の丸には11出入り門が作られた。中世居館拡張して城郭とし、本丸御殿のみで天守造られなかったが二ノ丸代用三重建てられていた。ただこの三重元禄期(1688~1704)までに取り壊されている。二の丸一辺500メートルほどの方形三の丸1.5キロメートルから2キロメートルほどの楕円形であった本丸には御殿二の丸には藩の政庁御三階櫓が、三の丸には534人の上級、中級最上家家臣屋敷城外には1,326人の家臣屋敷寺院が町方を取り囲むように置かれた。 霞城公園取り囲む水堀は、二の丸の濠であり、良く保存されている。三の丸水堀江戸期終わりごろには埋没し湿地化していたところが多かった多くは現在、住宅地などの地下埋没しているが、発掘調査結果良く保存されていることが確かめられた。

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飯盛山城」の記事における「城郭」の解説

飯盛山城縄張りとして、最高地点315.9mに高櫓曲輪築かれ南北一直線上の尾根伝い主要な曲輪群、東西尾根先端部にはそれぞれ曲輪築いている。

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周山城」の記事における「城郭」の解説

現在は全域民有地になっており主郭一部以外は植林されているが、台風による倒木多くみられ保存状態悪化心配される。

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山崎城 (山城国)」の記事における「城郭」の解説

現在の城郭は、最後城主となった豊臣秀吉時代のものが多くあらわれている。山崎城最大幅は、東西250メートル南北200メートル本丸北側には東西35メートル南北20メートル小曲輪があり天守台考えられている。本丸中心に東側南側南西側曲輪配置し北側断崖要害となっている。 縄張り基本四角形築城されており、「倭城長大登り石垣空堀第一戦捉えた天守台パターンに近いものが萌芽しており、織田豊臣系の築城パターン中でも秀吉個性強く出たものと考えられる」とし、山崎城築城パターンその後倭城多く出てきており、豊臣系のものが色濃く出ているとされている。豊臣秀吉山崎城に在城中は、天王山から宝積寺一帯にかけて布陣していることから、寺を含めて城郭として機能し、寺から山頂にかけての防御それほど重要でなく、「山頂のこの城郭は、全体詰の城といった存在であった考えられ」、山頂部分の縄張り最後の砦として機能したといえる。 また山頂の城郭(詰の城)は本丸に向かうまで、虎口枡形土塁、堀、土橋連続した防御システムがある。これについて「山麓宝積寺より山頂詰の城を一体とするパターンと、詰の城の細かい防御施設に後の秀吉系の城郭パターン原型と言える大要素を持った縄張の城郭である」と指摘されている。 遺構としては、本丸礎石跡、石垣井戸門柱礎石散見できる。歴史がある山崎城だが、発掘調査進展していない模様である。 本丸への虎口天王山山頂標札 本丸南下への曲輪井戸跡

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明石城」の記事における「城郭」の解説

本丸中心に配し東側二の丸、その東に東の丸配され南側三の丸西側には稲荷郭が設けられた。本丸二の丸東の丸明石城主郭部分で、この部分石垣土塁、堀などの作事徳川幕府担当し三の丸町屋に関しては、小笠原氏徳川幕府共同事業として進められた。

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三田城」の記事における「城郭」の解説

三田城は、武庫川右岸張り出した三田丘陵張り出した舌状利用して建てられ、北、東、南側が約20mの崖になっており、天然要害の地であった主郭部分は100m×150m長方形で、東に1ヵ所、西に2ヵ所をそれぞれ空堀区画して配置している。空堀規模埋め立てられて明確ではないが、幅10m、深さ5-10mを測る主郭両側の空堀屈曲しており、横矢がかかるような防御施設ではなかったかと思われている。周辺には堀跡があり、家老屋敷武家屋敷歴代藩主墓碑残り城下町の姿を現在につたえている。三田城兵庫県立有馬高等学校体育館改装工事に伴う発掘調査で、3面にわたる火災面と整地層が確認され3段階の改修が行われたと考えられている。 中世三田城時代 近世三田城時代 三田藩陣屋時代それぞれの遺構、遺物検出されている。中世三田城時代とは「車瀬城時代ではないか考えられ兵庫県立有馬高等学校辺りに「古城」という名が残っている。遺物などから16世紀後半考えられ遺構としては、堀、礎石建物井戸鍛冶炉、池状遺構石組遺構検出され遺物としては、丹波焼備前焼瀬戸焼の他に、青磁碗、青花碗、皿などの輸入陶磁器出土している。近世三田城時代遺構としては石組み井戸検出され遺物としては山崎氏家紋入り軒瓦大量に出土した三田藩陣屋遺構としては、建物跡ゴミ穴のみが検出された。 兵庫県三田市立三田小学校校舎・体育館などの建て替えに伴う数度発掘調査では、建物跡(「三田御館指図」と位置的に一致しない)を示す礎石遺構や池状遺構・竈石組(現在も校長室床下保存)、さらに九鬼氏以前のもの推定される小堀跡が検出されている。如上検出から、旧三田城城域新たな知見与えとともに陣屋御館」が数度増築・改築立て替えが行われたとも推定される九鬼氏は「無城であったため築城こそ許されなかったが、九鬼氏以前の旧三田城取り込んで更に拡張し堀を廻らすなど、大規模な陣屋構築している。藩内の人々からは「三田城」と呼称されていたとも伝えられている。10代藩主九鬼隆国城主格昇進するが、幕府規定では城主格には築城認められていないため、引き続き三田陣屋」と公称される。 『三田町図』(油谷氏旧蔵三田市)や『三田古地図』『摂州三田図絵』によると、三田城陣屋は、まず本町通突き当たり虎口にし釘抜門を設け、さらに進むと馬場(サクランバンバ)がある。馬場沿いには舟蔵御下屋敷藩校(家老九鬼図書屋敷国光館→造士館)・大手門があり、門内には内馬場馬屋番所がある。ちなみに御下屋敷は、藩主やその配偶者隠居所、また藩主の子女・側室の生活の場であったようである。史料によれば歴代藩主のなかで92歳という長寿遂げた8代藩主九鬼隆邑松翁)や11藩主九鬼隆徳松山)が隠居後余生御下屋敷送ったことが確認できる。現在、御下屋敷遺構として、築山灯籠が元の場所に、黒門三田市天神所在する金心寺山門として(移築に際して改変されている)、それぞれ遺存している。 大手門より緩やかな坂道を進むと堀があり、堀にかかる橋を渡る陣屋御門へと至る。陣屋は、四方水堀(南は大池)で囲まれ藩庁である御館長屋番所大工小屋などで構成されていた。御館は、「三田御館指図」(「三田屋敷図」油谷氏旧蔵三田市)によると、御式台御玄関内玄関御広間上間下間・次間の3間)・御小書院上間下間溜之間の3間)・御大書院上間下間の2間)・御居間上間・次間の2間)・御納戸・御兵法場・御風呂場御時計間・御焚火間・広間右筆部屋御茶所部屋御料理所・台所御椀部屋御勘定所御茶所御上台所(庭あり)・御下台所(庭あり)・御肴部屋御茶間・御三間・物置・御局御守殿上間・次間の2間)などの諸部屋設けられている。しかし、御館には藩政にかかる実務執り行う御用部屋家老詰所などが見当たらない。これらの評定機関内堀挟んだ陣屋北側二ノ丸存在し二ノ丸長屋囲まれ中に3棟建物構成されていた。2階建てであったとも伝えられている。さらに、元文4年1739年10月には二ノ丸にあった藩士越賀六郎屋敷召し上げて郷会所設けている。史料には「代屋敷大名明屋敷下され、……是迄居屋敷建具置かれる長屋は其侭差置く様仰付かる」とあるので、郷会所設置に際して長屋の他は新築されたようである。その他の施設として、二ノ丸には竹小屋があった。二ノ丸の東には空堀挟んで御茶屋設けられている。御茶屋東西南は堀に囲まれ、北は断崖となっており、その崖上端茶屋建物がある。さらに御茶屋内には、門や矢来内堀があり、非常に堅固な様相見せ単なる御茶屋としての性格には止まらず一朝事あった際には本丸役割を果たすようになっていたのではないか考えられる大分県玖珠郡玖珠町森陣屋の「紅葉の御茶屋」や天守見立てたとされる栖鳳楼」と性格一にするものかもしれない御茶屋の東には、空堀隔てた郭内武器庫土蔵があり、郭内北西角には「天守跡」(『摂州三田図絵』)・「古城」(『三田町図』)と、九鬼氏以前には天守存在したことを示唆している。「天守跡」とある辺りには、昭和10年代から20年代まで土壇のような形状遺存していたとのことである。さらに空堀挟んだ郭内には焔硝蔵古城稲荷社姫高稲荷社三田城鬼門に当たるため)があった。 『三田古地図』には、現在の有馬高校グラウンド付近に赤門長屋備えた御下屋敷準ずる御用屋敷示されている。 大池南側には武家屋敷整然と並んでいた。三田城陣屋東側には武庫川があり、城陣屋との間には町屋造られていた。なお、武家地町屋の境には木戸設けられていた。武庫川外堀として総構え形式とっていたと思われる三田城下町陣屋町形成は、寛永10年1633年)の九鬼久隆三田入封により市街地形態整え始めたとも伝えられているが、九鬼氏以前松平氏有馬氏山崎氏時代から徐々に形成されたとも考えられる万治元年1658年)には三田村より「三田町」として分離され桶屋町新町福井町)・北町西組鍛冶屋町)・北町東組本町西組・本町東組・南町西組(裏町)・南町東組(裏町戎町)・足軽町・湯山町の十丁町として発展する。さらに、その周縁が町化し四ツ町・河合町新地三丁形成されていく。城下入口三田村口・京口寺村口・狭間口・天神村口・三輪村口・田中口)には、それぞれ木戸設けられていた。 「三田御館指図」については、その史料性格について検討余地があり、当該指図示されるものが実在したものであったかについても検証が必要である。 近世三田城時代石組み井戸跡 兵庫県立有馬高等学校南側にある内堀兵庫県立有馬高等学校サッカー場/北側の崖 空堀近くにあるもう一つ井戸跡

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鷹取城」の記事における「城郭」の解説

近世城郭としての鷹取城は、南北100メートル東西80メートルほどであり、小規模なのである。しかし城郭は上下2段曲輪構成され虎口は四ヶ所に設けられ全周石垣囲い、その規模小ささ割には異例というほどの防御設備固めており、さながらトーチカ思わせるような鉄壁要塞であった

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太田城 (紀伊国)」の記事における「城郭」の解説

数々歴史がある太田城であるが、城郭に関して和歌山駅から徒歩7分という位置にあり、都市化急速にすすみ今はみる影もない。来迎寺から北東200mところに大門川にかかる大門がある。ここに和歌山市指定文化財指定されている大門があった。そこからさらに北東100mの所に「夢の浮橋」があったと言われているが、現在は埋もれてしまったのかその跡すら不明である。この「夢の浮橋」は太田左近浮いた夢をみたので、羽柴秀吉軍水攻めで来ることを悟ったという伝説にちなん付けられ橋名であった。 また「太田・黒弥生遺跡発掘調査」で太田城の堀跡と思われる遺構が五カ所発見され室町時代の皿やすり鉢、また鉛製鉄砲玉3個も見つかっている。しかし、多く住宅地下の遺構の為、全体像把握は困難である。来迎寺には太田左近奥方との指摘もある「砂の墓」もある。昭和初期には、第二次太田城の戦い堤防跡が約20ヵ所残されていたが、今はほとんどが消滅し出水付近に残っているのみである。

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岩城氏」の記事における「城郭」の解説

飯野平城大館城) 長友館:四ツ倉駅から山側位置白土岩城四十八館

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宮津城」の記事における「城郭」の解説

城郭そのものは土の中に埋もれ見た目には姿を消したが、宮津市立宮津小学校馬場先御門太鼓門が残されている。 2004年平成16年)の平成16年台風第23号による大手川河川改修きっかけ城壁復元取り組み2010年平成22年)に完成した併せて宮津城太鼓門も宮津小学校裏門から正門移築された。また、京都府与謝郡与謝野町愛宕神社拝殿は、宮津城にあった殿舎玄関移築した唐破風建物である。

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堂洞城」の記事における「城郭」の解説

一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪・北の曲輪大手曲輪出丸曲輪・池曲輪長尾丸があった。また平段丘の城周りには池が多くあった。 堂洞掻上城の名の通り、土を掘り盛り上げた地形活かした城である。 本丸には「天守構え」があったと軍記物信長公記』に記述がある。天守類似した建物存在推測する必要があるとも指摘されている。 堂洞城は、北の加治田城開けており、加治田城見張り攻撃付城として臨時築城された城であるとされる

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基町」の記事における「城郭」の解説

中世までこの地は太田川河口干潟であった応安4年1371年今川了俊紀行文道ゆきぶり』には「しほひ(潮干)の浜」として登場する広島県教育委員会資料によると、中世以前遺跡埋蔵文化財発見されていない戦国時代末期毛利輝元平野部城と城下町一体化して築き領国政治・経済中心とすること(近世城郭)を決める。当時五箇」(ごか、五ヶとも)と呼ばれた寒村であったこの地に天正17年1589年築城開始慶長4年1599年落成した。「広島」が名付けられたのはこのときである。のち城は福島正則次いで浅野長晟入場し幕末まで浅野氏統治した。 「広島城」も参照 Clip正保城絵図安芸国広島城絵図』 つまり近世においては広島城の城郭内に当たり、幕末まで機能し続けた現在の基町範囲内では、本丸二の丸三の丸(内大手郭)・外郭大手郭と西の郭に当たる(大手郭の一部北の郭北の丸現在の白島上八丁堀)。外堀つまり現在の町境には二重櫓築かれ、特に太田川(現旧太田川)を外堀位置づけ隣接する西側沿岸にも築かれていた。川には防衛上の観点から架橋制限が行われていた。 中枢であった本丸二の丸には厳重な警備がしかれ誰でも簡単に立ち入ることができなかった。三の丸には一族大名重臣住んでおり外郭城下町隔離していたものの、日中であれば藩士でなくても入ることができた。 明治時代初め本丸二の丸三の丸大手郭を「南町」、白島側の北の丸北の郭を「北町」、川側の西の郭小姓町)を「西町」と称していた。1887年明治20年南町北町西町一緒になり広島開基の地に因んで基町」と名付けられた。

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高堂城 (飛騨国)」の記事における「城郭」の解説

城跡瓜巣川北岸にある標高778メートル山頂にある。主郭山頂にあり、西、北、東の三方向に伸びる尾根にも曲輪がある。四面断崖の山で囲まれている。東尾根を降った所には馬止場がある。主郭西側から南へ伸びた尾根南端堀切があり、尾根降った辺りには広瀬氏居館がある。 城の総長が南の出丸より北宇津江まで1キロメートルにも及ぶ広大な縄張りの城である。高堂城広瀬城合わせる大城郭である。石垣石積)・郭(曲輪)・堀・切岸・土塁狼煙台物見台跡が遺っている。 岐阜県指定史跡であり、石碑説明板設置されている。城址標柱建てられステンレス製の碑の裏に、説明文QRコード記されている。 高堂城峰続きに、寺洞砦Ⅰ・寺洞ヶ洞砦Ⅰ・ヶ洞砦オトシ砦が続き出城として広瀬城がある。

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高松城 (讃岐国)」の記事における「城郭」の解説

城郭の形式輪郭式平城で、本丸中心に二の丸三の丸北の丸東の丸桜の馬場西の丸時計回り配置され、3重に堀が廻らされていた。かつては城壁瀬戸内海直接面し外濠・中濠・内濠のすべてに海水引き込まれ城内直接軍船出入りできるようになっており、水軍運用視野入れ設計されていた日本初本格的な海城である。縄張り黒田孝高(よしたか)が手掛けたといわれ、細川忠興小早川隆景藤堂高虎などによるとも言われている。高松城はじめとする海城海上封鎖難しく水攻め断ちといった攻城手段使えないため戦争時篭城物資搬入脱出ができ、近世縄張りとしては有利であった。 しかし、版籍奉還以後廃城になった高松城明治以降都市化の波に呑まれ、現在では海側に新しい道路(水城通り)が通り、ほとんどの建物取り壊され内堀中堀一部除いて埋め立てられている。最盛期には66m2(約20坪)あった城の総面積も、現在では約1/8の79587m2(約24千坪)にまで減少した。しかし現在でも外堀内堀には海水引き込まれており、往時名残残している。そのため、堀には牡蠣などの貝が生息し養殖放流されている。 高松城城下町 絵屏風 高松城城下町 模型 青線現存する縄張りで、赤線現存しない縄張り 高松城周辺

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養宜館」の記事における「城郭」の解説

養宜館存在期間は南北朝時代-戦国時代ということになっており、中世城館としては後期属するが、現存している遺構から手が加えられないとすると、養宜館中世初期平地単濠単郭方形館をそのまま使用されていることになる。しかし、ここが細川氏代々守護館とすると、長方形平地単濠単郭方形館だけではなかったと思われている。土塁上には櫓台しきもの描かれ絵図もあり、曲輪内の各所にも改良加えられ、それでも防備が不十分の面は他の場所連携をはかり、戦国時代適応した配備なされたものと考えられている。 館内にある水田間にはいくつかの段差確認でき、これに伴いいくつか区分分割されていた可能性が高い。ただ、現在の公民館周辺から北側、50m×100mほどの広がりがありこちらには段差がない。北側には祠が祀られていたことなどにより、この区域居館中心地があった可能性指摘されている。土塁は東辺が完存し北辺大半、西辺北隅の一部残されている。土塁規模は高さ3m基底辺幅は7-8m、上端部は1-1.5mになる。ただ、基底辺幅両側から切り崩しがあるため、旧状は少し広いものと考えられている。堀に関して1977年昭和52年)まで東堀が完存し、高さ2m以上、幅7-8mという規模であったが、農道建設に伴い破壊されてしまった。その他には、城内には井戸南側には竜神祭られている湧水があり、養宜館周辺豊富にが湧くことが知られている。 現在養宜館遺構としては土塁だけである。しかし、北側には「武田土居」、「中野土居」、「弥五郎土居」等、西側には「奥野土居」、「喜兵衛土居」、「上野土居」等の小字名集まっており、養宜館中心に500m範囲点在しており屋敷町構成想像できる侍屋敷町家取り入れた惣構え完成されていたと推察されている。 江戸時代書かれ史料によると、「中八木館構にて堅固ならず故に事有ん時柿の木谷、上田の両峯に物見狼煙を置守護職は成相に本陣を構へんとの企也」(『味地草』)とあり、養宜館防備面で不備があり、館構え不完全さを補うために詰めの丸があったと記されており、馬廻りの地や他の城郭を紹介している。養宜館南側には三つの山が壁を作っており、成相川右岸東側には前山城が、その奥、川を挟むように西側上田城が、東側柿の木谷城がある。上田城山頂部数段曲輪台があり、北方からの侵入備えていた。柿の木谷城は、山頂東端部に主郭があり、西方向曲輪連続している。これら山城養宜館の別峰城郭群として位置付けるならば、大規模な城郭配備であった考えられている。 居館内部は、江戸時代には阿波藩直轄地なり立ち入り禁じられ良好に景観保存されていたが、近代になると民地となり開発があり破壊進んでしまった。 東側土塁 東側虎口北側土塁 竜神祭られている湧水

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山科本願寺」の記事における「城郭」の解説

山科本願寺どのような寺院、城郭であったかについて、天文元年1532年8月24日二木』の条では 「 四、五代に及び富貴栄華を誇る。寺中広大無辺荘厳ただ仏の国の如し云々在家また洛中異ならざるなり、居住の者おのおの富貴、よつて家々分の美麗嗜む 」 —二木記載されており、「仏の国」と言わしめる程の壮大なものであった山科本願寺その周辺では各年代遺構発掘されていたが、築城直前荒野になっており、京に近く広い敷地欲していた蓮如にとっては山科はうってつけの場所であった規模南北1km東西に0.8kmに及ぶと推定されている。

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積善寺城」の記事における「城郭」の解説

城郭に関しては、「東面七拾八間二重堀西面九拾三間三重堀・南面百弐拾間三重堀、外に横二十五間、長百五十間貯池有、北面百三拾二間三重堀、外に大川有、本丸三拾五間四面云々」(『春生随筆』)とあり、本丸は約53m四方で、周りには濠をめぐらしていた。また同書秀吉の紀州攻め配置として、 秀吉の紀州攻め積善寺城配置配置本丸大将本丸矢倉東矢倉西矢倉矢倉矢倉武将出原右京 山田蓮池坊野原大部 知明院 長正知坊出田長寿院山下南ノ坊 西蔵院寿宝院 近木忠次熊取寿命院熊取大納言 とあり、5つそれぞれの武将配置され常詰衆として360兵、増援軍として9140兵が城内にいたと記されている。1843年天保14年)の『日根郡寺社覚』には安楽寺境内やその一帯城跡記されている。

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宇佐山城」の記事における「城郭」の解説

本丸跡には現在NHK民間放送アンテナ施設建っている。山頂平坦地南北細長くやや「く」の字形地形とっている。また本丸南側には、現在の山道とは違う城下につづく大手道があっと考えられ本丸への虎口には櫓門があったと推定される、幅約4m長さ5m石段残っている。石段両翼には構えた推定される高み確認でき、位置関係により単独櫓台考えられる本丸長さ30m、幅115mあり、北東部には石垣比較的よく残っている。二の丸本丸より3m低く本丸の南に位置する二の丸南北2つから成り立っており、北側南北13m×東西15m、南側南北16m×東西9mの平坦部から構成されている。また二の丸には東西6.5m×南北3.4m×深さ1mの貯水槽本丸櫓台下に確認できる二の丸西側には約18mの石垣残っている。三の丸山頂最北部にあり、約25mのほぼ方形平坦地があり、東側斜面石垣がある。本丸から三の丸までは広い城域があるとはいえず、森可成以下、複数城将城兵駐屯していたとなると狭いと考えられている。 『図説近畿中世城郭事典』では、「この城は、主郭全体建物建て込む縄張りであったかもしれない」としており、曲輪内部建物があったのではなく曲輪の端まで建物があった可能性示唆している。また三の丸北側に、櫓台帯曲輪からなる小さな曲輪群があり、この曲輪群が『信長公記』に記されている「端城」と考えられている。宇佐山城は、放送施設建設に伴う発掘調査1968年昭和43年)と1971年昭和46年)の2回実施され本丸から「瓦」が出土している。

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福住中定城」の記事における「城郭」の解説

福住中定城は、主郭主郭から南東部付属する2つ曲輪基本構造となっている。自然の地形最大限利用して防御性高めるならば、福住中定城付近に適当な場所は沢山存在している。それでもリスク背負いながら、当地選地したのは、防御性以外の理由高かったものと推察されている。 主郭北側には高さ3m、幅約7mの土塁めぐらしている。この土塁西側先端部分北側へ約3m張り出しがある。この張り出しは「折」と呼ばれ北側から攻め登ってくる敵軍に対してを建て横矢意識したものと考えられている。「折」は室町時代ではなく戦国時代以後遺構考えられている。この張り出し下部堀切となっており、この堀切西側は、張り出し構造合せて屈折している。東側そのまま竪堀となっており、現在は埋没しているが、当時主郭東側防備固めるために横堀あったようで、現在も断片的にその痕跡伺える事ができる。 主郭部分の北側半分平坦地で、方形館の様相となっており福住中定城中枢であった主郭虎口南西方向にあり、その内部側が武者溜となり方形館より一段高くなっている。主郭南西部にも張り出しがあるが、こちらは削平が不十分となっている。主郭虎口前面には城門があり土塁狭まった部分で、そこから城外に出ると道は左右にわかれる。主郭南東部付属する曲輪は、現在道がつけられているが、これは破壊道で当時は道が無く、堀底道を隔てて木橋などで連結されていた。南東部付属曲輪は、主郭虎口前面あり、か大手搦め手監視する位置にある。主郭防御する前衛的な曲輪考えられている。 このような城郭の特徴から、丘頂を削平し方形館を中心としたが周囲十分でない応仁の乱期の城郭と、後に周辺空堀囲み曲輪緑辺の土塁をつけた戦国期普請と、二段階から成り立っている。また福住井之市城も、応仁の乱期と戦国期二段階の改修認められている。

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樋口城 (下野国)」の記事における「城郭」の解説

周囲耕地囲まれ東西の川に挟まれ立地にあり、伝承では東西八十五間(約155m)、南北二十間(約218m)の規模で、単郭ではなく、御城(主郭)・中城二の郭)がある複郭の城で、現在も小字字名として残っている。 但し遺構については、ほとんどが宅地化されてしまい、現在は一部土塁横堀となる空堀残っているのみである。

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片岡城」の記事における「城郭」の解説

本丸部分南北66m×東西46mで、ここから信貴山城眺望がよい。この本丸曲輪の北のコーナー部分には、信長公記記載されている天守想定するような建設されていた可能性指摘されているが、「安土城以後新しい城郭の所見をもとに類推し記載であるかもしれず、類似のものがあったとしても、その実態は簡単な隅櫓の類に止まるではないか」と指摘されている。本丸部分その周辺帯曲輪水平に平されている。 本丸とその東側にある出曲輪の間には、大堀切(空堀)がありこの片岡城特徴にもなっている。箱掘になっており上幅17m、底幅11mで、途中土橋などがあり判別できにくいが南北に180m以上に渡ってある。規模形態から見て片岡城でもっとも新し防御施設であると見てよい、とされている。大規模な遮断性の高い防御ラインとなっている。 本丸曲輪南側にも曲輪がある。東側は削平が不十分であるが、西側明確に平している。傾斜部分含めると東西南北とも50m以上あり本丸曲輪と同じ規模になる。西縁には土塁がありこの内側に溝状に掘られている。これは後世畑地開発に伴うものでなければ不可解な構造となっている。この土塁近くには小さな竪穴があるが、この南曲輪は、以前畑で竪穴戦時中掘られたもので、片岡城遺構ではないと思われている。この南曲輪にも尾根続き遮断する堀切がある。上幅が14m、底幅6mの箱掘で、本丸東大堀切と同時期に作られたのではないか思われている。 階段曲輪がある北側本丸曲輪東側にも曲輪がある。この曲輪土塁切れていた部分があるが、これは簡易水道建設した時に崩したのである。この尾根伝い曲輪があるが、こちらも落差1.5mの堀切その先にはこの曲輪虎口がある。また周辺にも曲輪があり、一部櫓台として機能していた可能性指摘されている曲輪存在している。 片岡城があった城山丘陵 戦時中掘られ南側曲輪竪穴 南側曲輪堀切登頂部より撮影階段曲輪(現在は宅地化されている) 本丸本丸周辺帯曲輪片岡時代のもので、大堀切や他の堀切その他の曲輪松永久秀時代築城されたのではないかとされる堀切土塁直線的な組み合わせ大堀切な戦国時代末期にならなければ現れそうにない手法であると指摘されている。松永久秀信貴山城多聞山城天守等「城名人」と言われ、また織田信長家臣となってからは織田方の築城技術交換が行われ、さらに複雑な曲輪の配置実施されたと思われている。片岡城では、大堀切を改修したことで、本丸南側曲輪一帯となって防御することで、多様な作戦展開が可能になったと考えられている。

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城郭

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佐保来栖山砦」の記事における「城郭」の解説

城郭は北東から南西延び尾根最先端部に位置する尾根最長部を中心に曲輪3つあり、これを取り囲むように小規模な曲輪配され、それらを繋ぐ通路があった。斜面には、堀切石垣検出された。石垣は砦斜面全周するものではなく曲輪平坦面の高さまで積み上げたものではない。曲輪留め程度石垣であった思われるが、「心理的な防御機能果たしていたと思われます」と曲輪留め以外の役割果たしていたと解説されている。主要3曲輪一つ礎石建物とそれを囲む土塁出土した建物礎石火熱をうけ、火災被ったことが確認された。また土壁大量出土し礎石建物に伴うものと考えられている。中央の曲輪一段高く、両側にある曲輪一段低くなっている。建物があった曲輪一段低い部分にあたる。発掘調査により、礎石建物があった曲輪最初にできた曲輪で単郭構造の砦から、2つ曲輪並列して改築され変遷をもつ。最長部の曲輪礎石建物があった曲輪からの出土物多く住居を伴う建物が両曲輪であった考えられている。

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八王子市」の記事における「城郭」の解説

片倉城跡 - 片倉町空堀土塁等が残り15世紀後半中世城郭の形態を今に伝える。東京都指定史跡滝山城跡 - 高月町大石定重築城その後北条氏照居城規模の大きさ保存状態良さでは日本でも有数城跡東京都立滝山自然公園一画丘陵斜面を覆う約5千本が有名。国指定史跡高月城跡 - 高月町八王子城跡 - 元八王子町北条氏照居城であり、関東屈指の山城である。国指定史跡日本100名城。 ■右列に画像あり 初沢城跡 - 初沢町東京都指定史跡浄福寺城跡 - 下恩方町小田野城跡 - 西寺方町。国指定史跡

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龍王山城」の記事における「城郭」の解説

龍王山城は、龍王山築かれており、規模南北に1.2kmに及んでいる。南城の最高所標高は585.9m、北城の最高所は60mほど低い位置にある。どちらも戦国期末期改修認められるが、全般に北城の方が新しい。1540年天文9年)の前後十市遠忠居城時代と、永禄時代-天正初年松永方の支城時代2つピーク想定される松永時代には、信貴山城多聞山城鹿背山城、そして龍王山城の四城が拠点城郭となっていた。登城ルートは、生道の2道、中山道、そして釜口道の計4ルートがある。

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城郭

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播磨平野」の記事における「城郭」の解説

国宝姫路城播磨平野中心にあるが、黒田如水羽柴秀吉豊臣秀吉)の時代規模小さなであった。他にも明石城龍野城三木城御着城などの城跡がある。

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兵庫城」の記事における「城郭」の解説

兵庫城は、湊川支流縦横走り天然の堀の役目果たし前面は港を持つ防御拠点となった海城」として整備したものと考えられている。「(一五八一)に花熊城石材などの一部用いて天守閣備えた城を築いた」とあり、天守備わっていた可能性指摘している。 兵庫城入り口柳原総門兵庫の町の北部扇の要と言える場所にあり、柳原総門包み込むように、福海寺配置され枡形構成している。 『摂州八部郡福原兵庫津絵図』によると絵図中央に堀で囲まれた「御屋敷」があり、本丸跡ではないか考えられ140m2の広さがあった。堀の幅は3mで、野面積み石垣土塁防備していたと推定されていたが、2012年8月遺構発掘で場所によって9-18mの幅があったと確認された。城の北側には城下町形成されており、御同筋には多く社寺配置され寺町となっていた。兵庫津全体として南北2.7km、東西700mからなる城塞都市であった

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城郭

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将軍山城」の記事における「城郭」の解説

この城は、西隣にある東山新城の城郭部分将軍山城の城郭部分がどの範囲なのか、議論になっている。また幾度も焼失修築繰り返しており、当初東山新城の城郭部分修築後には将軍山城組み込まれ一体化したり、東山新城曲輪一部では修築痕跡がなく放置され複雑にしている。遺構年代別新旧判断基準土塁空堀構造をあげ、「単なる遮断防御用」、「防御土塁攻撃土塁」、「攻撃ポイント確定している」等の視点一定の評価ができるとしている。これらに基づき山頂部分の曲輪群について「東側長大空堀設けている。この空堀主郭との間には数段の削平地があるが、防御的色彩欠け居住的な空間考えられる。また主郭南方尾根にも数段の削平地認められるが、土塁認められず、削平の配置にも規則性欠け切岸も甘い。これらのことより、この瓜生山山頂部時代がやや古いものと考えられ天文十五~六年の義晴義輝普請であろう」としている。 しかし『図説近畿中世城郭事典』では、『図説中世城郭事典』の見方別の見方をしている。山頂部分の曲輪群について「東側長大な箱状横堀・坪堀を設け、さらに二本横堀馬出機能を果たす小曲輪・土橋・二ヶ所の長枡形虎口連係した一連の複合防御パーツ配置から、むしろ「強固な防御装置群を構築している」と評価する」とし複雑な曲輪をしており、結論として「連係した防御パーツ群を評価すると、元亀元年の織豊系普請であると判断する」とし、山頂部居住空間義晴義輝時代のままとしながらも、周辺曲輪群については明智光秀時代修築された可能性示唆している。 また瓜生山南方600メートル標高212メートル地点中心に曲輪群が4つある。このうち3つの曲輪群は東山新城呼ばれ若狭国武田氏築いたとしているが、1531年享禄4年以降記録には表れてこない。この3つの曲輪群は「瓜生山以前享禄の城とは考えられない現存遺構享禄東山新城をある時期大幅改修したものか、東山新城別のところに求めるかであろう」としている。しかし、この3つの曲輪群の中にも土橋と大竪堀」による複合パーツ枡形パーツなどの分析から、織豊系普請遺構確認できるとし、東山新城呼ばれているかなりの部分明智光秀時代改修されたとしている。但し部分的な曲輪には足利義輝六角義賢改修遺構存在している。 「現存遺構には時期差が認められ天文元亀登場する北白川城将軍山城一定の場所ではなく京北郊の北白川山地随時築かれたものだったであろう」と結論付けられている。

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小鷹利城」の記事における「城郭」の解説

土塁、郭、堀が遺る。又、礎石建物発見されている。

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飛騨国小島城」の記事における「城郭」の解説

石垣土塁、郭、堀、櫓台天守台)、虎口が残る。

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淀古城」の記事における「城郭」の解説

淀古城水陸交通の要街として槇島城と並ぶ山城国洛南の二大軍拠点一つであった。また西国方面海産物集荷市場魚市場があり、対岸山崎城並んで京都要害で、淀古城東側には現在は存在していない巨椋池広がっていたと思われている。 1890年明治23年)の『測量仮製図』によると、堀跡と納所集落東側土塁記載されていたが、現在跡地には、宅地化耕作地京都市立納所小学校建っており、唯一妙教寺石碑が建つのみで、北城堀や小字城堀という地名僅かにその面影留めている。淀古城については数多い歴史があるが、近隣淀城違って城郭は不明な点が多い。天守に関して詳細不明であるが、『駒井日記』には淀古城天守存在していた事が記載されている。淀古城廃城の後、多く資材伏見城建築使用されたようである。またその後淀城築城の際にはその伏見城から資材流用された。

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新庄城」の記事における「城郭」の解説

本丸には御殿三層天守落雷焼失)、三の丸には藩の政庁置かれた。 本丸 設備御殿土塁、濠、三層天守落雷焼失)、二重櫓3棟 現在は、本丸跡に「新庄城天守台跡」の碑。 二の丸 設備土塁、濠 三の丸 表御門 現在は、石垣一部残り、「表御門跡」の碑(本記事右の写真囲み概要画像)も参照)。

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下田中城」の記事における「城郭」の解説

田中という地名は、三田市には東本庄田中下田中の二ヵ所ある。東本庄田中鼻氏の拠点であるので、田中城の戦い記載がある『細川両家記』の田中とは、地形考慮し下田中であると推定でき、田中城の戦い時点では有馬氏細川澄元寄りであった推察されている。江戸時代までは田中という名称だったが、明治時代になると他の田中地区区別する為、「下田中」に改名された。現在の武庫川昭和10年1935年)から始まった河川改修工事まっすぐに付け替えられていたが、当時大きく蛇行し神明神社南側流れていた。字名に「城の内」「城の前」という地名残っており、現在の神明神社北側推定地方形居館建っていたと考えられている。河川改修工事前は、曲輪水濠残ってたようだが、現在は完全に破壊され、城の面影が残る遺構地上面に確認できない

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上野城」の記事における「城郭」の解説

藤堂高虎大規模に改修した時は、大坂城備えとして西側防備固めた。これは、徳川家康が不利となった場合、この城で籠城する時に備えて相当数兵員収容できるよう、細部完備美観整えるより実戦本意配慮した藤堂高虎伊賀忍者命じ58カ国、148城を密かに忍ばせ要害図を盗写させ、伊賀上野城改修参考にしたという伝承残っている。 筒井定次時代の城を取り込み大きさも約3倍となり7千坪に拡張した筒井定次時代本丸の西を拡張し、旧本丸合せて新本丸とした。本丸の南には広大な外郭をつくり二ノ丸呼ばれていたが、次第に名称も変わり東の高台通称するようになった東側外堀218間、堀幅12間、南側は488間、堀幅15間、西側254間、堀幅12間、北側17間、北の山下の土塁と堀筒井氏時代のものを活用している。丸の内は高い禄の家臣屋敷地となっていた。 本丸の西、内堀隔てた台地現在の三重県立上野高等学校グランド付近が、藩主屋敷御殿呼ばれている。城下町外堀の南に置かれ本町筋、二の町筋、三の町筋があり、三の町筋家臣住民消費そなえた商人町があった。三の町筋南側に堀が作られる予定であったが、中止になり外馬場となった。これ以外に馬場南一帯は外輪呼ばれる侍町忍町置かれ、更にその南に鉄砲組足軽長屋置かれ鉄砲町呼ばれていた。忍町南一端はかや町と呼ばれる農家があったが、次第に町が形成され東の枝町呼ばれていた。 嘉永7年1854年6月に、伊賀上野地震があり伊賀上野城をはじめ城下町大被害があり、城内建物多く壊れ石垣所々破損したその後御殿城代役所武具米蔵をはじめ、東大手門、西大手門等、城として最小限のものが補修されたが、外郭再建されず、倒壊をまぬがれた太鼓櫓菱櫓が残るものとなった。 古写真 東大手門(現存せず) 西大手門(現存せず)/伊賀市上野図書館 御屋敷現存せず)/伊賀市上野図書館 武具現存)/伊賀市上野図書館

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城郭(日本の城)

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日本最後の一覧」の記事における「城郭(日本の城)」の解説

最後に完成した、完全な(天守現存する城郭建築松山城天守本壇が1854年2月落成最後に完成した天守有する日本式城郭:松前城1849年幕府築城許可1854年9月完成最後に完成した幕藩体制下の藩による日本式城郭:石田城1849年幕府築城許可1863年6月完成最後に完成した日本式城郭:園部城1868年明治政府築城許可1869年8月完成最後に完成した、藩が建築した城(稜堡式城郭):松尾城1869年9月着工1870年藩庁などが完成個人所有であった最後の城:犬山城現存天守。旧城主成瀬家所有であった2004年より財団法人所有となる)

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高取城」の記事における「城郭」の解説

植村時代は、それぞれ3重の天守小天守をはじめ、22基の、5基の多門櫓33棟の門、2900メートル土塀3600メートル石垣、9の橋梁きょうりょう)、5の堀切からなる山城であった高取城は『高取町史』によると、近世的な改築天正9年1581年)から始まり本多利久朝鮮出兵より帰国した文禄2年1593年)、そして植村氏が入封した寛永17年1640年)ごろには基礎築いた指摘している。この植村氏統治する200年以上、大きな焼失災害にあうことなく部分的な修築なされていたであろうが、旧状を保っていたと思われている。また『大和高取城研究』によると、当時は城の石垣組みなおす場合でも、江戸幕府報告し許可が必要であったが、高取城に関して3代将軍家光より直々に植村氏三河国居城時の松平氏古参譜代であり、山上にあることから年々破損も多いと思われるということで「一々言上及ばず」と特別に許されていたようである。現状維持する分には、容易に改修ができたと思われている。

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吹田城」の記事における「城郭」の解説

日本城郭大系』によると「吹田城がどこにあったのかは、議論分かれるところである」としているのは、文献資料希薄吹田市では居館発掘例がなく、ほとんどが字名頼り推察され、情報少なさゆえに諸説ある。 『わが町すいた』によると「吹田村水陸交通の要衝であり、村内には国人吹田氏のほかにも有力な国人土豪居館構えていたことや、興亡移転によっても居館跡の数が増したのだ」と記している。指摘されている吹田城三ヶ所ある。

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地黄城」の記事における「城郭」の解説

大手門搦め手門、堀を設け、西、南、北は石垣巡らした東側には空堀があったとも伝わっており、単郭式ながら近世陣屋城として防備している。城内御殿官宅土蔵4棟御納戸、堂勤室、引換所、祝日来客室、武術稽古場馬部屋、弓場獄屋取調所などが十数配し、北隅には三層隅櫓もしくは楼閣備えていた可能性指摘されている。「新に縄張ありて追手搦手の口を定めて或は裏手には堀を構へ、四方には石塁高く築き追手搦手大門を構へ、或は殿舎楼閣番匠人力尽しければ、大廈の構へ魏魏として美麗尽し高塁の上には高塀を掛白土を以是を塗、矢間鉄砲狭間を構へ」(『能勢物語』)と記している。 地黄城記載されている『陣屋遠屋図』によると、城壁土塀巡らし大手には門があり、城内を塀により4つ区切り南東部主要な建物見られる上知と共にこれらの建物破却され、門や土蔵などは民家移築されと言われている。また近隣にある清普寺山門本堂は、地黄城武家門と大広間遺構と言われている。

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原田城」の記事における「城郭」の解説

原田城は、豊中台地南西部丘陵にあり、平野一望できる位置立地する北城南北140m、東西120mあり、[ヨ]字状に外堀巡らされている。有岡城の戦い時には幅15m、深さ5m内堀があり、大規模な改修行い守り固めた主郭内側には1.5m-2.8m、幅5-10mの土塁が現在も残っているほか、東と南側にも土塁痕跡確認できる。また発掘調査からは、礎石痕や柱穴確認できており、土豪居館にふさわしい屋敷建てられていた可能性がある。また3度にわたる焼土層が確認できていることから、火災にあったことが考えられる原田城土塁原田城土塁南城中心地原田会館

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茨木城」の記事における「城郭」の解説

茨木市京阪神地区衛星都市で、茨木城はその茨木市中心地にあり、宅地化され遺構しきもの存在していない。 正確な城郭は、小規模な発掘調査しかできていないため不明で、殿町、旧本丸町佐助屋敷などの旧町名より推測され推定地として東西220m南北330mの範囲大城ではなかったかと思われている。茨木神社石垣茨木城石垣移築されと言われている。

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百足城」の記事における「城郭」の解説

土塁、郭、堀、虎口櫓台が残る[要出典]。城地図にて櫓台は北櫓台と南櫓台がある[要出典]。 2017年平成29年)度の飛騨市教育委員会による試掘調査では石垣検出されている。石垣構築法金森氏による織豊時代石垣異なることから、姉小路氏による築城か、後の三木氏による改修があった可能性推定されている。

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豊地城」の記事における「城郭」の解説

豊地城城域は、東西400m南北200m有している。東側大畑川西側中谷川北側東条川三方を川によって区切られ要害の地であった東条川南岸河岸段丘位置し標高は70m、東条川からの比高8mにある。本主郭(60m×70m)の南側には、基底部幅11m、高さ5m長さ50mの土塁残っている。これは東南600mに位置する屋口城から見透かされないための配慮であり、土塁限りなく高くしたと考えられる。この土塁から東100m地点にみやみ保育園東側ため池がある。もともと南側でL字に折れて西に向いていた。外堀改修したため池南側防御ラインとなっていた。昭和55年1980年)から56年1981年)の期間、兵庫県教育委員会小野市教育委員会共同で2回にわたって発掘調査行った。この時に溝、柱穴石敷などの遺構埋甕陶器片、軒丸、軒平瓦丸瓦平瓦一石五輪塔などの遺物出土した。またこの時の発掘調査では弥生土器なども多数出土しており、城郭としてだけではなく複合遺跡考えられている。

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福知山城」の記事における「城郭」の解説

福知山城は、明智光秀築造後、その後多少修築行われたが、有馬豊氏時代完成したものと推定されている。 丘陵最先端部の一番高い所、標高35m、比高約25mに本丸を置き、その西に二ノ丸、更に西に伯耆丸、内記丸と続く四つ連郭式城郭を形成していた。全体として東西約600m×南北約150-300mとなっている。本来は本丸二ノ丸繋がっていたが、明治時代二の丸削り取られてしまい、また伯耆丸と内記丸間も繋がっていたが、福知山線建設に伴いそれぞれ独立丘陵となってしまった。その他曲輪として北側には左門丸、対面丸、侍屋敷大膳丸、南側には、泉水蔵屋敷馬屋鷹部屋庭園などを設け周囲二重三重の堀を巡らしていた。城下町としては、北方鍛冶町紺屋町鋳物師町呉服町京町などの町家川沿いには寺町南方侍屋敷配し東北には斜めに由良川流れ、西、南に外堀巡らされている。いわゆる惣構えとなっていた。 稲葉氏時代絵図には、本丸二ノ丸の間は「カラホリ」と「」を記している。この時代本丸二ノ丸分断されていたと思われているが、稲葉氏時代絵図以外には見られないので、それ以外埋められたものと考えられている。二ノ丸から西の伯耆丸は有馬豊氏の弟有馬重頼(有馬伯耆重頼)の館があったところである。 本丸二ノ丸にはそれぞれ御殿があったが、城の中央位置し規模大き二ノ丸御殿中心施設であった思われている。尚、現在の復元天守登るための通路は、本丸移され朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていた。 遺構調査転用石材の使用天守台周辺のIからIII期にわたる改修確認されており、I期光秀支配期と推定されている。

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三木城」の記事における「城郭」の解説

三木城堅城であるが、三木合戦以前にも幾度か落城憂き目にあっており、その都度拡張し防備強化され日本有数堅城になった思われている。現在の三木城跡には当時しのばせる物は非常に少ない別所長治400年記念してコンクリートの塀が築かれたが、これは近世城郭の塀で、少なくて別所長治時代の塀は土塁と塀を連携したようなものであった思われている。また本丸西側の崖には腰曲輪のようなものがあったがコンクリート固めてしまっている。

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小泉城 (大和国)」の記事における「城郭」の解説

小泉城大和小泉駅西北約600mの台地上の先端部に建っていた。台地東側湿田で、更にその東側には富雄川流れている天然要害の地にあった主郭部分は小泉城西側にあり、150m長辺内堀囲まれており、この内堀は1673年延宝元年)に銀4貫目完成したと『旧記』には記されている。この頃になると小泉城はほぼ完成され外堀薙刀池、お庭池に取り巻かれ、その中に家中屋敷があり、内堀内側には藩主居館があった。 薙刀お庭小泉城石碑への入り口主郭跡:他より一段高台地にある) 片桐城石碑小泉城の別名) 小泉城小泉陣屋とも呼ばれているが、『ふるさと大和郡山歴史事典』では「城郭としての構え十分に備えた大規模なもの」として、城下町富雄川沿いの南北並びに整然と出来上がっており、調練場城外つくられた。これらは『小泉城復元地図』に記されており、今日地割そのまま残っている。 西側にある外堀南側にある外堀南側部分的に残っている土壁(この奥が主郭になる) 小泉城石碑 大手道は金輪院前にある鈎の手から西へ登る道が当時大手であった。門は3ヵ所設けられており、北、西北、南にあり、そのうち1つ小泉神社表門として残っている。この門は冠木門高麗門呼ばれるもので、この門が移築前と変化していないのであれば、その扉は透門形式で、外から見られやすい弱点がある。『ふるさと大和郡山歴史事典』では「内部形式もしくは通路屈折させて遮断していたもの思われる」と記載しており、透門をカバーしていたのではないか解説している。

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安土桃山時代」の記事における「城郭」の解説

「城#日本」も参照 戦国時代から安土桃山時代にかけて鉱山技術建築技術築城技術造船技術などが進歩して軍事色が強い山城から平山城移行した城下町発展商業化城主政治統治商人への経済支配重視する平城移行した織豊系城郭呼ばれ野面積み石垣用いられるようになり、天守を持つ城郭建築主流となる。 犬山城現存国宝安土城本能寺の変後焼失 松本城現存国宝大坂城大坂の陣焼失現在の遺構江戸時代造られたもの 丸岡城現存国の重要文化財伏見城江戸時代初期廃城御香宮神社表門遺構として伝えられている。 聚楽第豊臣秀次失脚時に破棄大徳寺唐門西本願寺飛雲閣遺構として伝えられる佐和山城 竹田城 名護屋城 姫路城現存国宝世界遺産倭城文禄・慶長の役朝鮮半島築かれた城 蔚山城 西生浦城 順天城

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城郭

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勝竜寺城」の記事における「城郭」の解説

勝龍寺城主郭部分は東西120m南北80mの長方形をしており、東、北側の幅12mの水堀残している。また東、西、北の三面には土塁残っている。西側土塁は高さ10m、幅5m大規模なのである南側土塁、堀は消滅してしまったが大正11年1922年)の地図には記載されており、主郭部分を堀と土塁巡っていた。またこの主郭西側には「沼田丸」という曲輪があった。これは細川藤孝妻の実家であった沼田氏屋敷があったのではないか伝えられている。また大正11年地図には沼田周囲にも堀が描かれていた。現在は勝竜寺城公園駐車場がある。それ以外曲輪として、 松井屋敷 米田屋敷 神屋敷 等があった。主郭部分より北東200m地点神足神社があり、そこから南側東西土塁空堀がある。この空堀中央部分には土橋かっており、この土橋に対して西側土塁張り出した部分が、横矢がかかる構造となっている。大正11年地図には、この土塁跡からJR京都線まで続いており、更に北側には並行してもう一本土塁があり、勝龍寺城北方防御であった思われる。『米田文章』にある元亀2年細川藤孝改修した「外二重堀」とは、この土塁跡の遺構を指すと思われている。主郭部分の南側は現在住宅地密集しているが、大正11年地図には堀や土塁しきものがあり、「城郭の一部であった推定できる」とされている。勝龍寺城永正時代までは方形単郭館であったものを、元亀2年細川藤孝大幅に改修した考えられている。 元亀4年1573年6月6日付の里村紹巴書状橋本家文書)に、勝龍寺城の「天主」において細川藤孝里村紹巴両吟連歌興行行ったことが記されており、文献から安土城築城先行する数少ない天主存在したことが明らかになった。 また、天正2年1574年6月17日には「殿主」において、三条西実澄(実)から細川藤孝に、『古今和歌集』の解釈中心に歌学関連する諸説秘伝として師から弟子へと伝える「古今伝授が行われるなど、勝龍寺城天主文化的な交流拠点となっていた。 現在石垣北門一部に残るのみだが昭和54年1979年)の発掘調査石仏二体と石材数個、また大量栗石検出され、この発掘調査以外からも勝龍寺城大半石垣によって築かれたことが推定されている。また虎口部分枡形虎口となっていることも明らかにあり、織豊系城郭であることが明確になっている。

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城郭

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坂本城」の記事における「城郭」の解説

坂本城歴史上重要な役割果たしていたが、ながらく城の位置構造について不明となっていた。しかし1979年昭和54年)に実施され発掘調査によって一定の構造明確になってきた。

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信貴山城」の記事における「城郭」の解説

この山城大きくわけて、雄岳部分とその裾の扇型派生した部分2つからなる曲輪の数は110以上あり、奈良県最大規模中世城郭である。 『和州信貴山古城図』では、空鉢堂が建っている部分本丸、少し下ったところにある細曲輪二の丸ハイキングコースがある部分三の丸記載されている。 『探訪日本の城』によると、この本丸跡4層天守建っており、伊丹城1521年)につぐ日本2番目に建造され天守で、織田信長安土城もこの天守参考にしたのではないか思われ松永久秀築城才覚備わっていたと記載されている。 信貴山城天守については、『甲子夜話』天守始まりとして登場する実際遺構については確認されていないが、文献上の建造年では伊丹城楽田城1558年)に次ぐ。この建物名称については「高殿たかどの)」や「高櫓たかやぐら)」と呼んだという。 雄岳部分以外に、扇型派生した曲輪群がある。 立入殿屋敷曲輪 立入殿屋敷松永屋敷区切る壁面上部から撮影 立入殿屋敷松永屋敷区切る壁面下部から撮影 松永屋敷曲輪 信貴山城の「古城図」において「立入殿屋敷」や「松永屋敷」と呼ばれている曲輪は、その形状からも屋敷地であった考えられる。『図説中世城郭事典によれば城域からは割られ石臼発見されているが、これは石垣用いられたもので、破城の際に崩され石垣残骸であると考えられる。そして、それは「立入殿屋敷」や「松永屋敷」の存在した曲輪壁面設けられていたが、破城時に石垣崩したではないか考えられるという。 山城は、多人数攻め込むに対して少数人数で守る事ができる利点がある。しかし、信貴山城は山全体曲輪があり、兵力散漫になり拠点防衛出来にくい難点がある。『風雲信長記』によると、松永久秀散漫となっていた防御施設松永屋敷中心に木沢長政時代曲輪一部破棄し土塁東側階段曲輪堀切など拠点防衛可能なように大幅改修したではないか指摘している。 更に『風雲信長記』によると、上洛前、織田信長系統山城築城技術に「横堀」という防御施設はなく「堀切」を使用していた。松永久秀天理にある豊田城横堀防御施設設けており、信貴山城でも松永屋敷東側土塁防御施設があり、横堀同様の効果があるとされている。横堀そのまま鉄砲射撃陣地となり、鉄砲出現以降重要な防御施設とされていく。織田信長系統でも、松永久秀築城ノウハウ取り入れ伊賀国丸山城以降横堀あらわれてくる。しかし横堀逆に城から討って出る時に邪魔になる弱点があり、虎口効果半減してしまう。そこで、天正時代になると虎口一定の空間造るなどして弱点克服していく。このように織田信長系統築城技術は、畿内もしくは松永久秀築城技術取り込んでいき、その弱点改良していくが、逆にそのこと松永久秀織田方での地位徐々に弱体化していき、謀反の理由とも関係しているのではないか、と解説している。

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越水城」の記事における「城郭」の解説

越水城跡地は、現在のニテコ池の南東町名によると城山桜谷町満池谷町清水町またがりその範囲南北200m東西100mではないか思われる。 「瓦林正頼記」によると、 堀 壁 土居[要曖昧さ回避] 矢倉備え小清水の丘に「本城」と「外城」を築城した。外城には息子六郎四郎春綱や与力被官を住まわした建物があった。また越水城の南に位置する当時西宮町とは城下町のような関係にある。

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交野城」の記事における「城郭」の解説

現在城跡は1 - 3m高くなっている本郭二郭三郭呼ばれる曲輪と、光通寺出曲輪だったと思われる部分確認できるそれ以外昭和後期まで東側に1か所、北側に3か所の曲輪があったが、現在は宅地化され破壊されてしまったようである。 本郭 3つある主曲輪のうち、中央の曲輪跡は字「城」と呼ばれており、東西約50m×南北約60mの方形で、北側半分が1段高くなり、北端段高5m有している。位置的に見て本郭だったと推定される二郭 本郭からみて西側二郭がある。ここは字「天守」と呼ばれており、東西約25m×南北100m長方形で、北側は幅10mの道路分断されているが、当初繋がっていたと考えられる西側には土塁跡があったと思われ東南部には交野城井戸跡考えられる野井戸があったようである。 三郭 本郭からみて東側、10mの空堀が間をあけて三郭がある。東西約30m×南北約60mであるが、南側宅地化されており、当初の姿を判断するのは難しいと思われている。 またこれ以外にも、光通寺位置する地に堀がめぐらせられ、出丸出曲輪備えがあったと推察されている。 この主曲輪から北側には免除川が流れており、おそらく外堀役割果たしていたと思われ交野城北限考えられている。主曲輪免除川の間にはいくつかの曲輪があったと推定されているが、これらは屋敷跡ではないか思われている。また南側には水堀跡の名残思われる池が3か所があったようであるが、今は埋め立てられている。第6次発掘調査によると、この本郭部分からこの池と呼ばれる北端まで約75mもあり、城に付随する堀としては間隔が広いことから、2重の堀があるのではないか推察され調査したが、堀状の落ち込み認められず、この調査では2重の堀は発見できなかった。交野郵便局道路隔てた場所に土塁が数m現在も残っている。 本郭 二郭 二郭上面 本郭二郭間堀 三郭

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淀城」の記事における「城郭」の解説

三川合流地の中州干拓し、淀三町呼ばれる城下町形成している。縄張り本丸と二の丸中心とした「回」字形に、三の丸西の丸、東外には東曲輪巨大な馬出曲輪配されていた近世城郭である。築城にあたって大坂城縄張り参考にされ、『天下取り73城』によると堀や門の取り付け方などは、当時貿易国であったオランダ人からヨーロッパ築城技術が採り入れられたと考えられている。 北の納所地区南西の美豆地区とは、淀小橋・淀大橋つながれ城下町周囲三川囲まれ、河中の城であった城下町貫通する形で京街道設定され淀城大手門はこの京街道面して設置された。淀城この中州の西部を指すが、中州自体大きな水堀であり、古代中国都城のような構造持っていた。 この城の特徴として、淀城の西と北側直径九間(約16m)の大型水車が2基設けられていた。二の丸居間西の丸園池取り入れていたのに使用されていたと思われている。当時山城国人々から「淀の川瀬水車、だれを待つやらくるくると」と歌われた。『都名画譜』に描かれた「淀城水車図絵」(明治27年)。

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波々伯部氏」の記事における「城郭」の解説

波々伯部氏は波々伯部周辺中心に城をいくつか有していた。波多野氏八上城から東に4kmの、京街道北側小山所在する山城(別名・波々伯部城)や、弥十郎ヶ岳北西尾根にある畑市城、北の尾根南山城、淀山城の南東600mにある東山城などがある。

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上山田付城」の記事における「城郭」の解説

上山田付城昌渓院北東400m韮山城の東にある比高140mの山の頂に築かれ西北西方面には追越山付城が、南方面には昌渓院付城がある。韮山城からは死角にあり、あくまで陣城の役割なので、天守などは建造されなかった。大規模ではないが技巧的構造の陣城であり、このような城郭の残る城は少ない。 複雑に組み合わされている土塁が郭を仕切り山頂中央郭がある。中央郭から東には尾根があり、桝形虎口東郭東郭下段)、段郭が続いて形成されていて、その尾根に続くと昌渓院付城がある。中央郭から西には桝形虎口西郭桝形虎口空堀堀切続き、そこから南にのびる尾根に段郭がある。中央郭の北にのびる尾根にも段郭があり、追越山付城繋がっている。

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千早城」の記事における「城郭」の解説

千早城は、上赤坂城同じよう背後尾根伝いに登っていけば、金剛山到達する点が同じで、赤坂城郭群と一体的捉えて位置付けることも可能だが、上赤坂城のように平野部眺望がきかず、山間隠れた存在であり上赤坂城のような地域支配機能は有さない。 千早川渓谷利用し本丸二の丸三の丸、四の丸、出丸いずれも俗称)の5つ曲輪分かれ空堀堀切等が設けられている。本丸長さ100m、幅約20mの平坦地東方の最高所は約10mの四方の土段になって望楼跡の可能性指摘されている。現在は石垣の壇があるが、これは近代権現の跡である。本丸東南方に二ヵ所の袖曲輪南西方には五ヵ所の袖曲輪存在し茶屋ノ壇」と呼ばれており、こちらは現在「大阪府立存道館」「大阪府立山の家」が建っているため変形している。本丸より東方100mの場所には、楠木正儀の墓がある。 千早神社祀る場所が二ノ丸原形はかなり損なわれて、社務所一帯三の丸呼ばれている。四の丸は長さ100m、幅30mの平坦地城内で一番広い場所となっているが、公園化のため破壊されているようである。三の丸と四の丸の間の鞍部にかつて空堀があったと言われているが、参道のため埋まってしまったのか確認できない。また四の丸の西下には、武者隠し状の帯曲輪当時面影残っている。千早赤阪村立赤阪小学校の東が的場呼ばれており大手であったと言われている。 城の南には、千早谷を隔てて北山砦があり、南東には妙見谷を隔てて妙見砦があり、四周堡塁散在し自然の地形利用して連絡路があり千早城中心に城塞群形成されている。

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多聞山城」の記事における「城郭」の解説

多聞山城主要部若草中学校にあり、西部仁正皇后陵、聖武天皇陵、南部には佐保川流れ、東は空堀隔てて善勝寺山(若草中学校グランド)、その東は京街道になり交通の要衝占めている。奈良の町の北方位置するこの山は元来眉間寺山」と称されていたのだが、奈良統治者自認する松永久秀が、仏教北方守護神とされ、自身信貴山城入城以来信仰している多聞天信貴山には多聞天毘沙門天)を本尊としている朝護孫子寺がある)にあやかって多聞山」と改称し眉間寺を仁聖武天皇陵裾に移して近辺西方寺移転させ築城多聞山城もしくは多聞城称し北方から興福寺東大寺奈良の町を威圧統治した永禄5年1562年8月12日午前8時ぐらいより、多聞山城棟上げ式があり、奈良住民招待していた。 宣教師ルイス・デ・アルメイダ永禄8年1565年10月25日付の書簡が、ルイス・フロイスの『日本史』にも部分的に引用され記載されているので、世間知られるようになった。この書簡ルイス・デ・アルメイダ松永久秀家臣招待受けて見学し本国への書簡一文として記されている。 基督教に於て見たること無き甚だ白く光沢ある壁を塗りたり。壁の此の如く白き石灰に砂を混ぜず甚だ白き特製の紙を混ずるが故なり。家及び塔は予が嘗て見たる中の最も良き瓦の種々の形あり又二指の厚さありて真黒なるものを似て覆へり。此の如き瓦は一度葺けば四五百年更新する必要なし。予は六七百年の寺院多数に於て之を見たり。此の別荘地入り街路歩行すれば其の清潔にして白きこと、恰も当日落城せしものゝ如く天国入りたるの感あり。外より此城を見れば甚だ心地好く世界大部分此の如き美麗なる物ありと思はれず。入りて其宮殿を見るに人の造りたる物とは思はれず、之に付記述せんには紙二帖を要すべし。宮殿悉くにて造り其匂は中に入る者を喜ばせ、又幅一プラサの緑は皆一枚板なり。壁は悉く昔の歴史写し、絵を除き地は悉く金なり。上下約一パレモ真鍮にて巻き、又悉く金を塗り彫刻施して金の如く見ゆ中央には美麗なる大薔薇あり、室の内側一枚板の如く見え甚だ接近するも接目を認むること能はず。又地に多く技巧用ひあれども予は之を説明すること能はず。此等宮殿多く建物中に他に比し更に精巧なる室あり。奥行及び幅四プラザ半にして黄色なる木材用ふ甚だ美麗にして心地好き波紋あり。此木材は加工甚だ好く清浄なる鏡に似たり然れども此は木材光沢にあらず一種の漆ならんと思はれたり庭園及び宮庭の樹木甚だ美麗なりといふの外なし。予は都に於て美麗なるものを多く見たれども殆ど之と比すべからず世界中此城の如く善且美なるものはあらざるべしと考えふ。故に日本全国より只之を見んが為来る多し。 — 『日本耶蘇会士日本通信ルイス・デ・アルメイダ書簡 この書簡で、「壁は白く光沢ある漆喰の壁で瓦葺建物建てられ」ていて、どれも高い水準だと分かる。ここにある「塔」とはのことで、「宮殿」とあるのは本丸にあった御殿である。また「都で美しいものを多く見たが、これとは比べ物にならない」、「世界中にこの城ほど善か美なるものはない」と絶賛され宮殿内部は、「壁は歴史物語題材にした障壁画」、「彫刻と金塗り大きな薔薇」、「庭園と宮庭の樹木本当に美麗だ」と高く評価されている。 このルイス・デ・アルメイダ書簡外国人賛辞だが、『兼右卿記』にも「華麗さに目を奪われた」と記していることや薩摩国島津家久日記家久上京日記』には「多聞城内から大和一望できた」など、ほかの同様の見聞評価もあり事実豪華だったようだ。この書簡末尾に「日本全国よりこれを見るために来る」とあり見に来る者を排除していない。なお、後の坂本城安土城識者住民公開していて、戦国末には周辺理解を求める考え広まった様子がある。 松永久秀それまで築城名手との実績残しているが、このような壮麗な城の築城可能だったか、南都奈良)の大寺建築ノウハウこのような城を築く大きな要素になったとの説がある。瓦については西ノ京斑鳩橘氏などの世襲的職人集団に、興福寺東大寺の瓦工房一部取り込み再編成して、城郭専用簡略化した瓦を焼成した初例となった。だが、松永戦国時代末に現れ集権的な戦国領主一人だが、城自体構造は、重臣との一体性が強い状態を残していて、政治姿勢構造には反映していない。 また、松永久秀茶人としても名が通っており、大和国や堺、京の豪商著名人招き多聞山城3回茶会が行われたことが『松屋茶会記』に記載されている。この茶会記によると、多聞山城6畳と4畳半の少なくて2つ茶室もしくは茶亭があったと思われ、後に織田信長献上することになる「九十九髪茄子」(茶入)、また信貴山城落城する時に行方不明になった伝説では爆死する時に粉々になった)「古天明平蜘蛛」(茶釜)の名が見受けられる多聞山城は北と東西は横掘だが南は一部のみにとどまり佐保川総堀にした小規模城下町があり、一部佐保川越えて南側城下町の建設図り、現在は宅地化され定かではないが、『日本城郭大系』では一条通から南下する法連通にその面影があるとしている。多聞山城は元の市街地から離れた一部分小規模総構え平山城となっていたとの説を唱えている。

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黒井城」の記事における「城郭」の解説

ノ口山の山頂部には本丸(48m×22m)、二の丸(40m×19m)、三の丸(28m×23m)と呼ばれる曲輪がある。

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枝吉城」の記事における「城郭」の解説

枝吉城は、標高26mの台地本丸跡があり東西250m、南北110mの広さ持っていたが、神戸市玉津土地区画整理事業により約3/4本丸削られてしまった。北側台地には二ノ丸消滅)があり、本丸とは堀切隔てられていた。北東の隅に物見櫓がある曲輪があった。大手東側だったようで、現在は埋め立てられているが、オガタ池とトク池と北側にはシンボリ呼ばれている水路あわせて枝吉城の堀跡ではないか考えられている。また東側台地の裾に居館があり、その外側にも掘が設けられていた。1967年昭和42年)の発掘調査では、礎石列石柱穴の他、瓦塼を基礎とした建物遺構発見された。瓦塼を基礎とした建物というのは、英賀城御着城伊丹城などで見つかっており、「茶室お堂、あるいは倉庫の跡で本城級の城には付きものの施設であろう考えている」と解説している。 本丸跡 枝吉城東側の崖 枝吉城西側の切り崩された崖 神本神社の鳥居

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十河城」の記事における「城郭」の解説

十河城東西が川と谷(池)にはさまれ舌状の微高地標高42メートル比高10メートル)に所在し主郭部分は、鍵型の土塁囲まれ部分方形居館があり、周囲曲輪付属させていた。北側には大きな堀切土橋があったと思われ、その北側には大きな曲輪があった。主郭には現在称念寺建っている。池とは城の西側にある細い谷をせき止めたものであったことが『南海通記にみえる。また「十河城三方深田の谷入にて、南方平野に向ひ大手口とす。土居五重築きて、堀切ぬけば攻入るべき様もなし」(『南海通期』)とあり、大手南側にあり、三方は深い田となっており土塁を5重に築いていた事がわかる。仁王門から香川県道30号まで下り坂となっているが、その間には数段帯曲輪があり、それぞれに土塁築かれていたと思われている。また城の西側にある池は堀の一部考えられており、また香川県道30号東側にも水路があるがこれも城の堀であった思われている。 城郭の大部分は、宅地田畑となり城跡思わせる遺構はほとんど現存していない。 1976年昭和51年7月3日高松市史跡指定された。

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伏見城」の記事における「城郭」の解説

現在の城跡は江戸時代初期破却され、その後明治時代宮内省御料地とされ、明治天皇桃山陵、昭憲皇太后桃山東陵となったため、遺構調査も容易ではなく年代によっては史料不明な点も多いが、推定復元試みられている。 『城と秀吉』によると「伏見指月城どのような縄張りだったのかについてはくわしいことはわからない」とし、指月伏見城どのような城だったかは不明としている。また『肥前名護屋城と「天下人秀吉の城』によると、「伏見城築城工事動員され人員の数が指月面積に対して多すぎる事、発掘調査によっても堀等が検出されなかった丘陵北側防備が弱い事、当時文献で「指月」と呼ぶものが1例しかない事等から、伏見城当初から木幡山一帯主体部とした」としており、指月伏見城のみに城があったという説を最近の発掘調査などより否定し木幡山伏見城主体があった可能性指摘している。しかし最近になって従来指月城があったとされていた場所から秀吉時代のものと思われる石垣発見されたためやはり指月城現在の指月の地にあったものと考えられるようになった

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八木城 (但馬国)」の記事における「城郭」の解説

八木城平安時代末期からある城であるが、現在の遺構戦国時代末期から安土桃山時代大きく改修された。但馬国戦国時代の城郭には「竪掘」や「竪掘群」が見受けられるが、八木城には存在確認されていない同地域は比較平穏で「竪掘」までの防御施設必要なかった可能性指摘されている。

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竹田城」の記事における「城郭」の解説

竹田城は、険し地形ありながら曲輪のすべてを石垣取り囲んだ石垣の城郭である。山頂築かれた城郭としては最後近世城郭にあたる。縄張りなどから類推し近世初期考えられる竹田城山名宗全がこの地に城を築くよう命じ羽柴秀長新しく縄張り行いその後赤松広秀文禄のころより豊臣秀吉支援を受けながら、壮大な城へ仕上げたものと考えられている。 安土城のような大規模な石垣構造をもち、虎口枡形有する尾根の最高所本丸を置き、その正面天守台がある。本丸から三方向にのびて、北千畳曲輪、南千畳曲輪花屋敷曲輪という大きな曲輪群を有している。面積18,473m2にも及ぶ。石垣穴太石積み技法で、豊臣時代山城代表される遺構である。『ひょうごの城紀行』によると「竹田城赤松広秀三十代後半働き盛り築いたということになろう」としている。竹田城特徴ひとつとして、北千畳曲輪、南千畳曲輪花屋敷曲輪3つの曲輪群の標高が331mとほぼ同じ高さに作られている。本丸標高は351mになるので標高差は20mとなる。このことより平面構成だけではなく立面構成にも高度な計算がなされ3つの曲輪群が計画的に配置されている。総数天守含め20前後推定されている。 本丸北面 北千畳曲輪 花屋敷曲輪千畳曲輪

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八幡山城」の記事における「城郭」の解説

城跡大きく分けて2つから成り立っている。一つ山頂部山城と、2本の尾根挟まれ谷筋空間居館配置するこのように防衛空間としての山城部分と、居住空間居館分離する構造は、戦国期の城郭に数多く見られるが、近世城郭では珍しく時代逆行した二次元分離形態とっている。これは築城時が小牧・長久手の戦い翌年で、しかも徳川家康との講和以前段階となっており、東国に対して臨戦態勢緊張下にあり、防衛線として八幡山城機能したことに起因する1967年昭和42年)に山頂本丸から山麓居館部分集中豪雨によって大規模な土砂崩れ発生している。近江八幡市では土砂工事対応し 史跡指定視野入れた遺構残存状態の確認のため発掘調査が行われている。

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大塚城」の記事における「城郭」の解説

この城は『諸国古城絵図』にも記載がある。これによると、山頂部は8間四方曲輪があり、西側にも更に広い曲輪がある。またこの曲輪西側や堀を隔てた位置に丸馬出状の曲輪記されている。この丸馬出状の曲輪は、現状でもその形態平坦地見られる。ただしこの部分台地端部にあたるため、少なくて西端部分は自然地形踏襲すべきではないか指摘されている。また、この城は『大坂冬の陣屏風』にも記載されている。これによると、墳丘周囲土塁囲み上部には入母屋主屋以下、4棟建物描かれている。更に北側には虎口があり、冠木門描かれている。更に墳丘の裾にも建物が数棟あり、北側平地部にも堀と冠木門があり、『諸国古城絵図』よりも選地面から防御考えれば台地続きに堀を設け構造の『大坂冬の陣屏風』の方が現実的であるとされている。

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岸和田城」の記事における「城郭」の解説

『泉邦四県石高』によると、 「 今之城、天正之比天守もなく堀、矢倉麁相成に依て伏見之御城天守、矢倉門等迄被成御曳、石垣出来小出播磨守御代之事、二、三之丸迄出来、又大坂御陣後、通筋堺町之門、堀、石垣浜手石垣、南住間還之入口、門、堀、石垣出来須田次郎太郎殿奉行になり 」 —泉邦四県石高 とあり大坂の陣後本格的な城郭、総構え整えていたのではないか推察されている。東西は約370m、南北は約650mの平城で、5万3千石の城郭であった

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城郭

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小谷城」の記事における「城郭」の解説

小谷山一帯尾根筋谷筋そのまま活用した南北長い山城で、築城当時現在の本丸跡よりさらに北に位置する大嶽城付近に本丸があったと考えられている。久政、長政によって代々拡張重ねられ現在の城になった落城後長浜城建築資材とするため小谷城解体されてしまったが、山王付近に現存する大石垣をみる限り当時としては先進的大規模なであった推察される。

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城郭

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高屋城」の記事における「城郭」の解説

高屋城石川東側にある標高約47mの河岸段丘にある独立した丘陵築かれ平山城になる。大乗川は現在本丸付近東流しているが、江戸時代流路変更したため、元来北流していた。北側要害地形になっている高屋城大きくわけて3つの曲輪から成り立ち一つ曲輪面積では日本最大級となる。大永2年1522年)の大火様子を「去大晦日八時ヨリ高屋城尾張守館始而百八十間自火云々河内守在所者不苦云々」(『経尋記』)と記載されている。これによると大晦日焼けた部分だけでも180軒も武家屋敷があり、高屋城規模は相当なものだった推察されている。

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