その他曲輪
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鷹の尾曲輪 この曲輪は別名「鷹尾城(鷹尾山城)」とも呼ばれており、東西細長い丘陵にあり新城曲輪より比高18mと高い場所にあり、本丸、西の丸、新城曲輪をよく見通すことができる。東側には土塁と空堀があるが、西側の丘陵は崩され現在は三木市役所が建設されている。 八幡山曲輪 この曲輪は別名「宮ノ上要害」とも呼ばれており、雲龍寺から南に250mのところに八幡山曲輪があった。鷹の尾曲輪との比高は15mで、羽柴秀吉がここに陣取り三木城を見下ろしたと言われている。現在は三木市の浄水場があり遺構は全く残っていない。 平山丸曲輪 この曲輪は三木城の北東隅にあり、当主・別所長治の次弟である治定の居館跡と伝わる。慶長6(1601)年に伊木忠次が城主となると、先君・池田恒興(勝入斎)追善のためにこの地に護国山勝入寺(現・護国山正入寺)を建立した。 最近の調査では羽柴秀吉が築いた付城群が30ヵ所、土塁線が10kmと次々と新しい発見がなされており、国の史跡に指定されている。
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その他曲輪
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それ以外にも曲輪がある。 八木玄蓄屋敷曲輪 二の丸を出て坂を下っていくと、小高い丘に突き当たるとそこが家老の八木玄蓄の屋敷跡と伝わっている。八木玄蓄は内藤のジョアンの義兄で、この曲輪は雑木が繁っており見通しも悪く、この台地が左手へ出張っているような形で、下にある谷は玄蓄谷と呼ばれている深い谷になっている。 三の丸 八木玄蓄屋敷曲輪から更に尾根伝いに進むと、前方に一段高い峯が立ちはだかりこれが「烏帽子岳」と呼ばれている。ここに前城主の家老が居を構え居た三の丸がある。ここには大正時代のマンガン鉱を採掘した大きな洞窟が2つある。 東の出丸(対面曲輪) この東の出丸の側面に通っている道が表通であったため、この曲輪の周辺に大手門があったのではないかと思われている。東の出丸には奏者番の詰所があったと伝わっている。まず使者や来客はここで待たされ、その間奏者番が、対面曲輪に赴いて御側使用人に報告し指示を受けていたのではないかと思われている。今もこの道は「奏者峠」と呼ばれている。 それ以外にも、北の出丸、北の丸口、屋敷曲輪の曲輪や、岩屋口、辰の口、虎松口、杉谷口などの虎口がある。
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その他曲輪
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その他曲輪として数多く存在する。 伊藤丸 沢田丸 馬渕丸 三井丸 馬場丸 大見付丸 三国丸 伊庭丸 進藤丸 後藤丸 観音寺 このように曲輪の名称に、「二の丸」や「三の丸」のような数字ではなく、人の名称が使用されたと伝承されている。これは、六角定頼の時代に家臣団、国人衆を観音寺城へ居住させ、文献上では初めて「城割」を実施したためではないかと推定されている。
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