その他昭和に関する事柄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 19:02 UTC 版)
大正天皇が崩御した際に、東京日日新聞(現:毎日新聞)が『新元号は光文』をスクープしたが、新元号は『昭和』と発表され(結果として)大誤報となってしまった。一説には「光文」がスクープされたために急遽「昭和」に差し替えられたとも言われている(光文事件)。しかし、「光文」は内閣の新元号案に提示されているのみであり、実際に新元号作成中心になっていた宮内省の最終第3案まで残っていたのは「昭和」「神化」「元化」の3案とされる。枢密院議長、倉富勇三郎の日記によれば、その後の調整で1926年(大正15年)12月8日時点で「昭和」を最終候補とし「元化」「同和」を参考とする最終案が決定していたことが明らかになっている。「光文」は、内閣案の一つが選定作業中に漏れたに過ぎず、記者が検証できないまま飛びついたのが実情とされる(『昭和大礼記録』、石渡隆之『北の丸』第7号(1976年〔昭和51年〕9月)「公的記録上の「昭和」」、『倉富勇三郎日記』「倉富勇三郎関係文書」)。 昭和の「昭」は今でこそポピュラーな漢字だが、当時はまれに人名で使われたりする以外は、学者や一部の貴族以外は馴染みのない漢字であったという(元来は「照」の原字で、意味も「照」と同じ。)。そのため、「昭和」が最終案に選考された際には当時の一木喜徳郎宮内大臣から「章和」とする変更意見が出された程である。しかし、「章和」は過去漢と高昌で使用されていた元号であり、結局原案のまま「昭和」に確定した経緯がある。 史上還暦を迎えた元号は日本の昭和と清の康熙だけである。(昭和は丙寅で「還暦」している。) 1926年(大正15年)12月25日に出生した新生児は、その当日が大正天皇崩御のため役所が休みとなったこともあって、出生届の提出が遅れ、戸籍上の誕生日が異なる(大部分が翌年(1927年)の昭和2年生)ケースが多発した。植木等、関根潤三らがこうしたケースに当たる。また、メリー喜多川は同じ日に生まれているが、出生地がアメリカであったためこの事例には含まれない。 日本では、嘗て使用した元号は二度と使用しないという慣例がある。昭和も例外ではないが、鎌倉時代に「しょうわ」と読む同音異字の元号「正和」を使用した例がある。
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