伊豆国分尼寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 23:48 UTC 版)
尼寺の所在は明らかではない。『日本三代実録』元慶8年(884年)4月21日条によると、国分尼寺は承和3年(836年)に焼亡し、その後定額寺の某寺が法華寺とされたという。また同条によれば、元慶8年(884年)に新たに建立することを許されたともいう。 僧寺東方に所在する祐泉寺には、裏手に「市ヶ原廃寺」と呼ばれる寺院跡がある。祐泉寺境内には塔礎石が残されており、この廃寺が薬師寺式伽藍配置であったとする説がある。この礎石は三島市の文化財(考古資料)に指定されている。また、祐泉寺の南方に位置する法華寺は国分尼寺の後継と伝えられる。 以上を基に市誌編纂事業では、国分尼寺に塔は設けられた例がないことから市ヶ原廃寺は「定額寺の某寺」でありかつ『日本文徳天皇実録』に定額寺として見える「大興寺」に充てられ、新たに建てられた寺が「法華寺」だとみなされた。ただし市ヶ原廃寺の遺構は明らかとなっていないため、伽藍配置や規模含め問題が残されている。
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