伊豆大島、千葉大原時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 22:57 UTC 版)
つげ義春の父・柘植(つげ)一郎は、腕のいい板前職人で、東京都大島町元町の最も大きく格式も高かった千代屋旅館に勤めていた。職位は板長(総料理長)。千代屋は当時、皇族や政府要人が来島の際に必ず泊まる御用達旅館でもあった。また、「南風」「大島を望む」「伊豆大島風景」等を描いた画家・和田三造を始め、昭和初期の著名な画家達が定宿にしていたという記録もある。千代屋旅館の記憶について、つげは「縁の下に大きなイタチが住んでいた記憶がある」と後年回想している。つげが伊豆大島で暮らした4歳頃までは、家族が仲睦まじく経済的にも安定した時期であった。 つげ義春にとって伊豆大島は、父が板長として元気に仕事をしていた時代であり、波乱の多い生涯において唯一良い思い出の故郷である。1987年3月、雑誌「COMICばく」(日本文芸社)に発表した、密航を題材にした自伝的作品「海へ」において、大島の「三原山」「あんこ娘」「椿」「大島節」等を背景に、板長の父とあんこ娘姿の母の周りに3人の子(兄の政治と義春と弟の忠男、母の初産であった長女の守子は、つげが誕生する前、3歳時にすでに大島で死亡していた)、幸せだったつげ一家の情景が6カットに亘り描かれている。 1941年、5歳、三男・忠男が生まれた年、母の郷里である千葉県大原(現在のいすみ市)の漁村小浜へ転居。父は東京の旅館へ単身、板前として出稼ぎ。母は自宅で夏は氷屋、冬はおでん屋で生計を立てる。経済的には山をもてるほどの余裕があった。大原町では幼稚園に入園したが、集団生活になじめず、3日で退園。すでに臆病で自閉的な性格があらわれていた。この年、父は病に倒れ東大病院へ入院。 父・柘植一郎は、自分の病気の悪化に伴い、入院先の東大病院から妻・ます宛に手紙を出している。「…自分の病気(アジソン病)はもう治りそうにない。政治や義春や忠男は元気でいるでしょうか、自分にもしものことがあったら、子供たちのことはくれぐれもよろしくお頼み申し上げます」。母が箪笥の奥にしまっていたこの手紙を偶然見つけ、こっそり読んだのは12〜13歳の頃だったと、つげは回想している。 1942年、5歳のとき、父・一郎が前述のアジソン病により42歳で死去。死の直前の父は錯乱状態であり、東京の出稼ぎ先の旅館の布団部屋に隔離され、布団の山の間に逃げ込み、そこで座ったまま絶命した。母はつげとつげの兄を引きずるように父の前に立たせ「お前達の父ちゃんだよ、よく見ておくんだよ」と絶叫したという。1943年、葛飾区立石に転居。母は軍需工場に就職。一家4人で社宅の4畳半で生活する。あまり外出せず兄・政治と弟を相手に遊ぶ。貧しい母子家庭で苦労して育つ。
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