伊豆大島の流人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:46 UTC 版)
やがて、傷が癒えその強弓の技が戻ると再び暴れ始め、島の代官の三郎大夫忠重の婿となり伊豆諸島を従え年貢も出さなくなった。伊豆諸島を所領とする伊豆介・工藤茂光を恐れた忠重は密かに年貢を納めるが、それを知った為朝は激怒し、忠重の左右の手の指を三本切ってしまう。 伊豆大島に流されてから10年後の永万元年(1165年)は鬼の子孫で大男ばかりが住む鬼ヶ島に渡り、島を蘆島と名づけ、大男をひとり連れ帰った。為朝はこの島を加えた伊豆七島を支配する。 嘉応2年(1170年)、工藤茂光は上洛して為朝の乱暴狼藉を訴え、討伐の院宣が下った。同年4月、茂光は伊東氏・北条氏・宇佐美氏ら500余騎、20艘で攻めよせた。 為朝は抵抗しても無駄であろうと悟り、島で生まれた9歳になる我が子・為頼を刺し殺した。自害しようと思うが、せめて一矢だけでもと思い、300人ほどが乗る軍船に向けて得意の強弓を射かけ、見事に命中し、船はたちまち沈んでしまった。 館に帰り、「保元の戦では矢ひとつで二人を殺し、嘉応の今は一矢で多くの者を殺したか」とつぶやき、南無阿弥陀仏を唱えると柱を背に腹を切って自害した。享年32。追討軍は為朝を恐れてなかなか上陸しなかったが、加藤景廉が既に自害していると見極め薙刀をもって為朝の首をはねた。 没年は治承元年(1177年)ともいわれる(『尊卑分脈』)。 伊豆大島では今でも為朝が親しまれており、為朝の碑も建てられている。島の女性と結婚して移り住んできた本土出身の男性を、為朝の剛勇ぶりにあやかって「ためともさん」と呼ぶのもその名残である。
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