伯耆国分寺跡
名称: | 伯耆国分寺跡 |
ふりがな: | ほうきこくぶんじあと |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 鳥取県 |
市区町村: | 倉吉市国分寺・国府 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1974.03.12(昭和49.03.12) |
指定基準: | 史3 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | S48-05-135[[伯耆国分寺]ほうきこくぶんじ]跡.txt: 伯耆国分寺跡は、倉吉市国分寺にあり、倉吉平野の西にある低い丘陵上に位置している。発掘調査の結果、寺域の西寄りに金堂・講堂などの遺構を、また東西隅近くで塔の遺構を検出した。塔跡からは風鐸や多量の瓦などを発見している。なお寺域の西辺と北辺には以前から土塁と堀が残っていたが、調査の結果、寺域は一辺約185メートル、ほぼ1町半で計画されたことがわかった。なお国分寺の北に近接して国分尼寺が確認されている。 |
伯耆国分寺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/19 19:59 UTC 版)

伯耆国分寺跡(ほうきこくぶんじあと)は、鳥取県倉吉市国分寺にあった伯耆国の国分寺跡。国の史跡に指定されている。
概要
国分川左岸の丘陵上にあり、伯耆国庁跡の東側にある。また、東北側には国分尼寺跡と推定されている法華寺畑遺跡がある。
1970年(昭和45年)以来の発掘調査の結果、寺域は東西182m・南北160mの規模で寺域の周囲に溝を巡らせ、溝の内側の南側に築地塀、残り三方には土塁が築かれていることが確認された。
寺域の西寄りの区域に金堂・講堂・回廊の跡が検出され、これらの南方に南門跡、寺域の東南隅に塔跡がある。金堂と講堂は南北に近接して位置し、塔は回廊外の南東方に建っていた。
『続左丞抄』には948年(天暦2年)に火災で焼失したと記されており、それを裏付けるかのように塔の付近には火災時に塔が北西方向に倒れたことを示唆する焦土の堆積が残されていた。
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鬼瓦
鳥取県立博物館展示。
参考文献
- 松村恵司「伯耆国分寺跡」『日本史大事典 6』(平凡社 1994年) ISBN 978-4-582-13106-2
- 真田広幸「伯耆国分寺跡」『国史大辞典 15』(吉川弘文館 1996年) ISBN 978-4-642-00515-9
- 眞田廣幸「伯耆国分寺跡」『日本歴史大事典 3』(小学館 2001年) ISBN 978-4-09-523003-0
座標: 北緯35度25分57.2秒 東経133度47分23.3秒 / 北緯35.432556度 東経133.789806度
伯耆国分寺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 16:34 UTC 版)
国衙跡の東へ約300メートルほど離れたところにあり、尼寺跡は、僧寺と尼寺は離れて建立するように定められているが、北へ約50メートルと近接している。
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