但馬国分寺跡とは? わかりやすく解説

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但馬国分寺跡

名称: 但馬国分寺跡
ふりがな たじまこくぶんじあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 兵庫県
市区町村 豊岡市国分寺
管理団体
指定年月日 1990.12.26(平成2.12.26)
指定基準 史3
特別指定年月日
追加指定年月日 平成16.02.27
解説文: S54-12-033[[但馬国分寺跡]たじまこくぶんじあと].txt: 本国寺跡は、円山川中流域にひろがる沖積平野一角所在し近傍国府推定地もあって古代但馬国中心部みなされてきたところである。寺跡北側勾配急な丘陵斜面画されるが、一帯国分寺地名でよばれ、丘陵裾に薬師堂があり、また付近に礎石遺存することなどから、早くからここに但馬国分寺所在したことが推定されてきたのである
 昭和48年から50年および52年発掘調査結果金堂跡とその南方中門跡両者を結ぶと推定される回廊跡、金堂真西に並ぶ塔跡等が確認された。中でも塔跡遺存状況良好で、基壇は1辺約16メートル規模をもち、乱石積基壇化粧基部検出されている。基壇周辺には約40センチ幅で玉石敷がめぐり、その外側浅くくぼんだ再落溝がみとめられる基壇北辺と西辺で玉石積み階段とりつくことも確かめられる基壇上で礎石5か所・根石3か所が検出されたが、礎石原位置から多少動かされているようで、心礎の上面も打ち欠かれて旧状をとどめない西南隅の礎石には、径1メートル、高さ10センチ座のつくりだしみとめられる。塔の周辺からは風鐸多量の瓦が出土している。
 金堂跡は、基壇の南辺と東辺、および東辺の回廊とりつき部分とが確認されており、深さ90センチの掘込地業伴っている。中門南北11メートル東西14メートル上の規模有し、乱石積基壇化粧をもっていた。
 なお、昭和52年行われた発掘調査では、寺域東南隅を示す築地検出され木簡なども出土している。
 但馬国分寺については、『続日本紀』宝亀8年7777月癸亥条に「震但馬国国分寺塔」とある。この記事とただちに結びつくとはいえないものの、塔跡周辺焼土などにより火災をうけた状況示していた。いずれにしても昭和48年以来発掘調査によって国分寺良好な遺構存在することが確認されたわけであり、その学術的意義きわめて大きい。
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但馬国分寺

(但馬国分寺跡 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/10 19:37 UTC 版)

但馬国分寺

本堂
所在地 兵庫県豊岡市日高町国分寺734
位置 北緯35度28分20.8秒 東経134度46分23.3秒 / 北緯35.472444度 東経134.773139度 / 35.472444; 134.773139座標: 北緯35度28分20.8秒 東経134度46分23.3秒 / 北緯35.472444度 東経134.773139度 / 35.472444; 134.773139
山号 護国山
宗旨 浄土宗
創建年 (推定)天平13年(741年)頃
開基 (伝)聖武天皇
文化財 薬師如来像(豊岡市指定文化財)
法人番号 7140005012391
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但馬国分寺(たじまこくぶんじ)は、兵庫県豊岡市日高町国分寺にある浄土宗寺院。山号は護国山。

奈良時代聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、但馬国国分僧寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、古代寺院跡である但馬国分寺跡(国の史跡)と、但馬国分尼寺跡(史跡指定なし)についても解説する。

概要

豊岡市南部、円山川の形成する国府平野に位置する。聖武天皇の詔で創建された国分寺の法燈を継いで再興された寺院である。現在の境内は創建期の国分寺跡と重複し、北方約1キロメートルの地には国分尼寺跡も立地する。また、国分寺跡付近には平安時代以後の国府の遺構と推定される祢布ヶ森遺跡も立地し(平安時代以前の国府の位置は不詳)、一帯は古代の但馬国における中心地であった。

古代国分寺跡については昭和48年(1973年)から発掘調査が実施されており、遺構は平成2年(1990年)に国の史跡に指定されている[1]。数十次を数える発掘調査のうちでは、特に昭和52年(1977年)の第5次調査において全国の国分寺跡では初めてとなる木簡の出土があったこと[2][3]、および平成28年(2016年)の第34次調査においてこれも全国の国分寺跡では初めて主要伽藍以外で回廊が見つかったことが注目される[4]

歴史

古代

創建は不詳。天平13年(741年)の国分寺建立の詔の頃に創建されたと見られる。『続日本紀天平勝宝8歳(756年)12月20日条の但馬国ほか25国への聖武天皇一周忌御斎会のための下賜記事から、当時には完成していたと推測される(国分寺以外で御斎会を行なった可能性もある)[3]。考古学的には、国分寺跡の井戸部材の伐採年が763年と判明している[2]

神護景雲年間(767年から770年)と推定される木簡に、寺の人員配置が記されており、寺の施設・組織の一部が判明している。醤殿、三綱炊屋、朔御倉、西倉、北倉、鋳所、院内、官坐といった部署である[5]。別の木簡からは、朝来4人、出石5、養父5と但馬国内の郡から労働力を徴発していた様子もうかがえる[5]

宝亀8年(777年)7月14日には「震但馬国国分寺塔」として、塔が落雷被害に遭った旨の記事が見える[3]貞観4年(862年)には、但馬権守の豊井王から長さ1丈5尺の幡18旗の施入のことがあった[3]

延長5年(927年)成立の『延喜式』主税上の規定では、但馬国の国分寺料として稲2万束があてられている[3]

全国のほとんどの国分寺は平安時代以降に衰退するが、但馬国分寺の場合にはどのような変遷を辿ったか詳らかではない[1]

中世

弘安8年(1285年)の『但馬国大田文』では、「国分寺」として記載が見えており、法勝寺末寺で領家は白河中将(白河伊定)であり、寺領は寺田34町20分(歩)で、内訳は寺用田10町8反300分・定田23町1反72分であった[3]

文書によれば国分寺領は法勝寺を本家として荘園化しており、建武5年(1338年)には光厳上皇の院宣によって「法勝寺領但馬国分寺」が白河中将(白河伊宗)に安堵されたほか、応安4年(1371年)にも白河侍従に安堵された[3]。また、建武5年(1338年)に国分寺の違乱の停止を命じた文書も残る[3]

観応2年(1351年)には、地頭の伊達朝綱が南北朝の戦いで「国分寺」に参陣した(一説に国分寺城を指すか)[3][1]明徳2年(1391年)には奈良の西大寺の末寺となっており(前述の法勝寺は1342年以降衰退)[1]永禄3年(1560年)には国分寺の土地の一部が日光院に寄進された[1]

天正8年(1580年)、羽柴秀長による第2次但馬征伐で国分寺城の大坪又四郎が討たれたといわれるが、国分寺もまた焼亡したと伝える[1]

近世

近世前期の変遷は詳らかでない。延享4年(1747年)には取調により但馬国分寺に関する言い伝えが記録された[1]宝暦9年(1759年)には釈迦如来像が京都から但馬国分寺の跡地に移されて再興が図られ、宝暦13年(1763年)には堂再建の勧進として国中への托鉢が行われた[1]

文化11年(1814年)には伊能忠敬が当地を訪れ、『測量日記』に国分寺跡・尼寺跡に関する記録を残している[1]

近代以降

但馬国分寺跡

但馬国分寺跡

僧寺跡は、現国分寺付近に位置する(北緯35度28分19.12秒 東経134度46分26.00秒 / 北緯35.4719778度 東経134.7738889度 / 35.4719778; 134.7738889 (但馬国分寺跡))。寺域は1町半(約160メートル)四方と全国では中規模[3]。伽藍は南から南門・中門・金堂を南北一直線に配し、中門左右から出た回廊が金堂左右に取り付く[2]。また、金堂西方には塔を配する[2]。発掘調査で判明した遺構の詳細は次の通り。

金堂
本尊を祀る建物。後世に大きく削られ全容は明らかでない。基壇は東西約21メートル、南北不明。基礎は掘込地業により築かれる[2]
釈迦の遺骨(舎利)を納めた七重塔。金堂の西約55メートルに位置する。基壇は約16メートル四方。乱石積で、基壇中央には階段を残す。礎石としては、心礎含む2個が原位置を保って残る(心礎は後世に上面を打ち欠く)[2]
中門
金堂の南約35メートルに位置する。整地土が認められている[2]

主要伽藍としては以上のほか講堂・鐘楼・経蔵などの伽藍の存在が推定されるが、明らかでない[2]。伊能忠敬の『測量日記』では、文化11年(1814年)時点で伽藍の礎石3個が存在する旨が記載されている[1]。現在は塔礎石2個が僧寺跡に、南大門礎石1個が但馬国分寺境内に残るほか、原位置不詳の礎石6個(または5個)が周辺各地に伝世されている[1]

そのほかの遺構としては、金堂の東方において回廊(南北70メートル以上か[6])を有する建物が見つかっている[4]。主要伽藍以外に回廊が見つかったのは全国の国分寺跡で初めての例となり、「院」の墨書銘土器の出土から大衆院跡と推定する説がある[4]。また東南隅では、寺域を区画する築地塀・雨落溝の跡が見つかっている[2]。この溝からは木簡36点が出土したが、この木簡出土も全国の国分寺跡で初めての例であった[2]

以上に加えて、寺域内では井戸4基が認められている[2]。うち1つは一辺1.7メートル・深さ2.7メートルと大規模なもので、その部材(ヒノキ材)の1つの伐採年は年輪年代法により763年と判明している[2]。この井戸からは瓦・土器・釣瓶・鑰・木簡など多数の出土品が検出されている[2]

但馬国分尼寺跡

但馬法華寺旧阯碑と礎石
(豊岡市日高町水上・山本)

尼寺跡は、僧寺跡の北方約1キロメートルの豊岡市日高町水上・山本に推定されている(豊岡市立日高東中学校付近、北緯35度28分48.98秒 東経134度46分33.77秒 / 北緯35.4802722度 東経134.7760472度 / 35.4802722; 134.7760472 (伝但馬国分尼寺跡))。現在は礎石2個が残るのみで、伽藍の詳細は明らかでない[7]

伊能忠敬の『測量日記』では、文化11年(1814年)時点で伽藍の礎石7個が存在する旨が記載されている[1]。現在は前述の2個が尼寺跡に残るほか、原位置不詳の礎石10個(または9個)が法華寺境内など周辺各地に伝世されている[1]

なお豊岡市日高町山本には、但馬国分尼寺の後継と伝える曹洞宗の法華寺があり(北緯35度29分3.68秒 東経134度46分37.82秒 / 北緯35.4843556度 東経134.7771722度 / 35.4843556; 134.7771722 (法華寺(伝但馬国分尼寺後継寺院))[8]、礎石数個がその境内に伝世されている[1]

文化財

国の史跡

  • 但馬国分寺跡
    1990年(平成2年)12月26日指定[9]
    2000年(平成12年)11月15日、2004年(平成16年)2月27日、2011年(平成23年)9月21日、2013年(平成25年)10月17日、2015年(平成27年)10月7日、2017年(平成29年)10月13日、2025年(令和7年)3月10日に史跡範囲の追加指定[9][10][11][12]

豊岡市指定文化財

  • 有形文化財
    • 薬師如来像(彫刻) - 後世に多くの修理・後補を受けているが、平安時代の彫刻の特色を有する。1980年(昭和55年)4月21日指定[13][14]
    • 風鐸(考古資料) - 所有者は豊岡市。1980年(昭和55年)4月21日指定[14]
    • 木簡 36点(考古資料) - 所有者は豊岡市。1980年(昭和55年)4月21日指定[14]

現地情報

所在地

  • 現国分寺:兵庫県豊岡市日高町国分寺734
  • 国分寺跡:兵庫県豊岡市日高町国分寺
  • 伝国分尼寺跡:兵庫県豊岡市日高町水上・山本

交通アクセス(現国分寺・国分寺跡まで)

関連施設

周辺

祢布ヶ森遺跡
  • 祢布ヶ森遺跡 - 但馬国の後期国府推定地。
  • 国分寺城跡 - 国分寺跡の北方の山上に残る中世山城跡。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 但馬国府・国分寺館 展示図録 2006, pp. 88–94.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 但馬国府・国分寺館 展示図録 2006, pp. 63–83.
  3. ^ a b c d e f g h i j 但馬国分寺跡(平凡社) 1999.
  4. ^ a b c "主要伽藍以外に回廊 但馬国分寺跡 全国初の発見"(日本海新聞、2016年2月20日記事)。
    "但馬国分寺跡から回廊を初確認、「大衆院」か 豊岡市教委"(産経ニュース、2016年2月20日記事)。
  5. ^ a b 大庭脩・編『木簡』296頁。
  6. ^ "但馬国分寺跡 大回廊の存在を確認 19日、現地説明会"(毎日新聞、2016年11月17日記事)。
  7. ^ 但馬国分尼寺跡説明板。
  8. ^ 山本村(平凡社) 1999.
  9. ^ a b 但馬国分寺跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  10. ^ 史跡等の指定等について(文化庁報道発表、2017年6月16日)。
  11. ^ 平成29年10月13日文部科学省告示第143号。
  12. ^ 令和7年3月10日文部科学省告示第26号。
  13. ^ 国分寺境内説明板。
  14. ^ a b c 豊岡市指定文化財一覧 (PDF) (豊岡市ホームページ)。

参考文献

  • 史跡説明板(豊岡市教育委員会設置板、旧日高町教育委員会設置板)
  • 日本歴史地名大系 29-1 兵庫県の地名 I』平凡社、1999年。ISBN 4582490603 
    • 「但馬国分寺跡」「山本村」
  • 大庭脩『木簡 古代からのメッセージ』、大修館書店、1998年。
  • 中世諸国一宮制研究会編 編『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年。ISBN 978-4872941708 
  • 『国府・国分寺の謎を探る -但馬国府・国分寺館 展示図録-』但馬国府・国分寺館、2006年。 
  • 但馬国分寺跡」『国指定史跡ガイド』講談社  - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。

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