常陸国分尼寺跡とは? わかりやすく解説

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常陸国分尼寺跡

名称: 常陸国分尼寺跡
ふりがな ひたちこくぶんにじあと
種別 特別史跡
種別2:
都道府県 茨城県
市区町村 石岡市若松
管理団体 石岡市(大12・1213)
指定年月日 1922.10.12(大正11.10.12)
指定基準 史3
特別指定年月日 昭和27.03.29
追加指定年月日 昭和47.06.28
解説文: 尼寺ケ原トスル畑地西方展望ニ富ムノ地ニアリ 國分僧寺阯ト相距ル七、八八八二番八八四六番及八八五四番ノ三地域内ニ土壇礎石ヲ存ス 即チ金堂講堂中門ノ阯ニシテ善ク舊規ノ認ムヘキモノアリ 又附近ヨリ奈良朝時代特徴アル古瓦ヲ出ス
尼寺ヶ原と称せられる地域にあり、中門跡金堂跡・講堂跡が南北中軸線上並列しており、金堂跡は約3尺の土壇をなし、現在10個の礎石存し、5間に4間の堂宇のあったことが認められる講堂跡は約1尺の土壇をなし、24個の礎石現存し、7間に4間の堂宇認められる附近より奈良時代属す鐙瓦宇瓦等が発見されている。旧規よく存し国分尼寺跡として稀有の例であり、学術上特に価値が深い。
S46-5-124常陸国分尼寺跡.txt: 常陸国分尼寺跡の既指定地昭和28年3月特別史跡指定)は、わずか中門跡金堂跡・講堂跡を中心とした地域であった。ところが昭和4445年発掘調査結果南大門跡掘立柱建物)をはじめ西・南・北に幅約3メートル寺域画す堀がめぐっていることが明らかとなった。これにより寺域は、方1町半と考えられるので、指定地寺域全体に及ぶようにするものである

常陸国分尼寺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 22:30 UTC 版)

常陸国分寺」の記事における「常陸国分尼寺跡」の解説

尼寺跡は国分寺西北600メートル位置する寺域は約1町半(164メートル四方東大寺伽藍配置(塔なし)で、南大門中門金堂講堂一直線上に配置され中門左右から出た回廊金堂囲んで講堂接続する。 『新編常陸国誌』によると、尼寺天正18年1590年)の佐竹氏大掾氏兵火焼失したという。 金堂講堂中門跡奥に金堂基壇回廊南大門跡奥に中門金堂基壇

※この「常陸国分尼寺跡」の解説は、「常陸国分寺」の解説の一部です。
「常陸国分尼寺跡」を含む「常陸国分寺」の記事については、「常陸国分寺」の概要を参照ください。

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