伯耆国豪族時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 06:56 UTC 版)
「名和系図」によれば、名和氏は村上源氏を祖とし、右大臣源師房または権中納言源雅兼の子孫とされる源行明が流罪となって伯耆国汗入郡長田荘に土着して、長田氏を称したと伝わる。子孫の長年の代に同国名和荘に住したことで名和氏を称するようになった。長年は建武新政下で後醍醐天皇の中心として因幡と伯耆2国を領したが、延元元年(1336年)に建武政権に造反した足利尊氏と京都の東寺合戦で戦い戦死。 その子義高も2年後の同3年/暦応元年(1338年)に和泉国の堺浦合戦で戦死した。 それ以降、長年の孫である顕興が肥後へ移り、古麓城を居城とした。
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